第3話 眼



 シミラが機能を停止してから、魔獣達の眼になにも変わりはなかった。
 彼がひとり駄目になったからといって、その穴埋めはいくらでもできた。彼等は個人ではなく集団であり、シミラはその一欠にすぎなかったからだ。
 シミラは魔獣の一欠であり、魔獣はナイトメアの一欠にすぎない。

 ナイトメアは、シミラを気に入っていた。
 だからこそ、破壊した。ウィズを壊せと云う命令を、シミラの脳に叩き付けることで。
 それは見事に思惑に適った。シミラは今はもはや、ただの骸だ。
 壊れた玩具はただのガラクタにすぎない。
 飽きたら、棄てるだけ。





 シミラは、死んだ魚の眼だった。白く澱んで、虚ろに見開いている。
 リルゼンはそっとシミラの肩に手を乗せる。するとそこから薄く紫色の光が漏れて、シミラは、ゆらりと立ち上がった。
 それは操り人形とかロボットとか、そういう類の動きで、とても生気は感じられない。実際、シミラは死んでいた。
「可哀想ね。」
 リルゼンは静かに云った。
「でもね、私たちはみんなそうなの。
幸せになんかなれないのよ。
だって、夢なんですもの。」
 返事が無いのは、知っていた。リルゼンは、それきり何も言わなかった。










 ナイトメアは、悪夢そのものだ。
 恐怖と苦痛、目を覆いたくなるような惨劇、それらのみがナイトメアの眼を楽しませる。
 その部屋は、混沌として暗黒で、それでもギラギラした色彩とが、底無しのように続くような、理解や冷静を根本から揺るがすような、そんな部屋だった。
 ナイトメアはそこにいた。
「辛いか、シミラ?」
 しかしシミラは漠然と、目の焦点は合わない。何もかも忘れた、何もかもわからない。
 喉で笑う悪夢。
「崩壊してしまったか。
シミラ、私を存分に楽しませておくれよ。
お前等に存在理由を与えたのはこの私だ。」
 ナイトメアの爪先が、黒く光る。そのままそれは、シミラの額を貫いた。
 その指はまるで鉄の太い針のようで、そのままシミラの脳まで貫き、痛みも無く殺せそうだったが、しかしナイトメアはそうしなかった。
 シミラに最高の苦痛を与えるための施し。
 パチッ、と、一瞬電流が走ったような音が鳴り、すると変化が始まる。
「……あ……ああ…、ア、……ッ、ヒ、ィ」
 一時的に覚醒された感覚は、すぐに恐怖に変換された。
 悪夢という存在、それだけで発される恐怖。
「あぁあア、あッ…」
 バチンッ。紫色の炎の弾が、放たれる。
 それはシミラの身体を弾き飛ばし、シミラはそのまま床に叩きつけられた。いや、この混沌とした空間の中では、床なのか壁なのか、天井なのかもわからない。
「ぁ」
 呼吸もできない。単純な恐怖にひたすら喘ぐ様に、ナイトメアは微笑んだ。
 首を踏みしめ、腕を掴む。どこからか、ミシリと音がして、悲鳴を上げた。内部で血管が切れた気配がする。
「ククク……好い声だな。」
 ピチッ。
「あァッ!?」
 痛みだけが突き抜けた。ひらひらと、目の前を落ちる、花びらのようなものがある。それは自身の爪だった。
 白く半透明で、先のほうが若干、赤黒かった。指先が焼けるよう。
 恐怖と痛みで身体が震える。凍えるように寒い気もするし、焼けるように熱い気もする。
 どこへも逃げられなかった。爪が無くなり、喉も枯れ果て、けれどゼィゼィと喘いだ。
 それからはよく理解できず、ただ苦痛が稲妻のように嵐のように、肉体を吹き荒れ精神を傷つける。
 これが恐怖なのか。
 それすら理解できなくなっていた。
「は…あァ……ィハッ…ヒ」
 恐怖に潰れる。
 ならば、精神がとれる最期の方法は、ひとつだけだ。
 恐怖から逃れるためには狂うしかない。
「………ヒヒ……ハッ!……ヒハハアッ!ああーッ、あッ、ガぁ…ッ!!」
 喘ぎ、笑い、泣いた。
 全ての感情が暴発して、恐怖を塗りつぶそうと必死だった。
「イヒヒヒヒヒ、ヒィ、ヒ、ア、あ、あ、あああ、あ」
 シミラの肌を、その鉄の爪が引き裂き、貫き、決して殺さない。
 狂ってしまったシミラを哀れそうに、そして愉しそうに見た。
「簡単には殺させない。お前は私の“お気に入り”だからな。」
 そう言うと、シミラの喉を掴み、直接顔を覗き込む。
 開けっ放しの口を魚のようにパクパクさせ、汗と血と涙と、笑う眼は開け放たれたまま何も見ていない。
 気を失えば楽なものを、気が触れてしまってからは、そんなことも忘れてしまった、哀れな玩具。
「魔獣シルバーアイを知っているか?
私の最高傑作のひとつだ。アレは私の作品の中でも、一番美しかった。星の戦士に破れたが。
……お前はもういずれ死ぬが、それまで、最高の見せ物を見続けさせてやろう。」
 すると、ナイトメアの掌に、ぼうっと紫の炎が上がり、そこに、ひとつの眼球が現れた。
 それは瞳孔が銀色に輝いていた。強弱のない、のっぺりした銀色だった。
「シルバーアイの試作、鏡眼(ミラーガン)だ。
……クククッ、さあ、くれてやろう。」
 ナイトメアの指先が、近づいてくる。
「あ……ア……」
 邪悪を感じる。
 声にならない。



 くぷっ。



 その、鉄の、爪が
 まぶたを裂き
 眼を抉り
 そして
 その眼が
 落下し、
 それは
 ナイトメアの足が
 くしゃりと
 踏み潰した

 あ、アアア

 窪んだそこから涙が溢れた。
 目玉は無くても、涙は溢れた。
 しかしそれも一時の癒しだった。
 邪眼が押し当てられる。
 思いの外、それは楽に体内に吸収され、一部となった。
 取り返しのつかない、一瞬の出来事だった。
 その眼から、映像が伝わる。








 あああああああああああああああああああああああああああああああああ








 叫びは痛みであり、苦痛であり、恐怖だ。
 ころせころせころせ
 どうかころせ
 それが最後の、シミラの願いだった。
 ナイトメアは笑った。
「生きたいと願ったのは、お前だ。」

 棄てられた。
 そして、棄てられた。
 生きている棄てられた。
 痛い痛い苦しい辛い。
 わからないわからないしらないしりたくないいやだやめてくれもう。
 いたいいたいいたいいたいみたくないしにたいしにたいわすれてくれもうわすれたい。
 にくいにくいにくいニクイ憎イ憎イ憎い憎い憎い憎い憎い憎い。

 憎い。