第2話 ウィズの微笑



「シミラ、ですか?」
 リルゼンはいぶがしげに聞き返した。
 ナイトメアは、クックッと、邪気を含み笑う。
「全ての記憶を消してやったのに、まだ“個への想い”を憶えている。
なかなか執念深い魂だな。」
「邪魔なのでしたら、すぐにでもアタシが消しますけど。」
 暗くて、胸が苦しくなるような空気が溢れていた。
 ナイトメアは虫でも見下ろすかのようにリルゼンを眺め、そして笑った。
「必要ない。」
 そのとおり。必要ない。
 このお方にとって、この世の殆どの出来事はその一言で片付けられる。アタシを造ったことも含め、全て。
 魔獣と悪夢で宇宙を覆って、全てを手に入れることだけが目的だから。全てに無関心で愛そうともしないくせに。
 このお方はアタシを認めない。決して。アタシがそれで傷つくことを楽しんでらっしゃる。
 それでも、アタシはこの方に忠実だ。絶対に。
 だって、それだけが存在理由なのだから。





 魔獣は常に夢をみている。

 夢を見続けることでしか生きられなくなった者。それが魔獣だからだ。
 そして、精神も肉体も、全て侵されている。心地好い悪夢に。
 だから自由なんか有り得なかった。自我なんか有り得なかった。
 夢はいつか醒めるものだと、絶望するまでは。

 ―――あなたが忘れてしまっていることを、僕は知っているよ。
 それは時々語りかけてくる。
 たとえば、胸の奥で。脳の中核で。精神の奥底で。
 ―――でも僕は、完全な僕じゃない。僕は僕のことがよくわからない。
 ―――あなたが忘れてしまってることだけ、みんな知ってるけど。
 まどろむ様な、そんな気分のときに、ふっと浮かびあがり、失われる。
 記憶の幻影。
 そういう存在だった。
 ―――僕はあなたのなかの僕だから、僕は元の僕を知らないけど、あなたにとって僕だった僕。
 ―――僕はあなたの記憶そのもので、そのなかの僕だよ。
 とても不思議な存在だった。
 私は全て失くした筈だし、今はもう何も持つことが出来ないのに、記憶の海を泳ぐそれ。
 眼に映ってもすぐにぼやけてしまう様な物事のなかで、唯一はっきりと語り掛けるそれ。
 それは、脳のなかでうっすらと微笑んでいた。いつのときも。

 私の手先の感覚は少しずつ鋭利になっていき、いつの間にか、誰からも命令されていないのに、私はそれの器を造っていた。
 肌の感触に似た性質のボディで覆い、眼は金色のガラスで、髪はしっとりと黒く。
 目覚めたそれは、私の眼を覗き込んで、うっすらと微笑む。
 私はそれに、ウィズと名付けた。





 私のその頃の任務は魔獣の制作で、実験動物として連れ込まれた愚者に魔獣の洗礼を施していった。
 魔獣には、大きく分けて2種類存在する。
 心を大きく操作された者と、肉体のみを操作された者だ。
 心を侵すことが出来るのは、ナイトメアのみ。私の任務は肉体に施すことだけで、その先は知らなかったし、知る必要も無かった。
 施しは、悪夢の魔力を組み込み、後は用途に合わせて組み替える。
 肉体のみを操作されたものは、実戦用の魔獣を造る為の試作みたいなもので、すぐに棄てられた。
 心をも侵された者は、私のような「手先」になるか、ダークマターとの実戦に駆り出された。なんの疑問も持たずに。なにも与えられずに。
 機械人形のウィズは、忠実で、そして正確だった。
 私と同じような精神構造の「同僚」達は、ウィズの存在になんら疑問せず、ウィズは私の助手として活躍した。
 ただひとり、ナイトメアの直属の部下のリルゼンだけは、ウィズに疑心の眼を送っていた。ウィズは変わらずに微笑んでいた。





 ウィズは素直で、私に綺麗な笑みをくれる、特別な存在になっていた。
 ウィズが傍にいるときの方が、私が私だと認識できていた。私の精神がクリアーになった。
 大切な存在だった。
 だから。
 だから。
 あの日、何故ウィズを嵐の轟く風の渦に放り出してしまったのかわからない。
 私は、心のこもらない眼差しでウィズを見つめた。
 ウィズは、激しく雨に打たれながら、それでも私を金色の眼で覗き込んでいた。
 私は重いドアを閉めた。ガシャン。取り返しのつかないような、大きな鈍い音がする。
 ウィズを、追い出せ。
 それが、脳の中で何度も反芻された指令だった。なのに、全身で否定している。身体が小刻みに震えた。
 私は、心の底から後悔していた。吐き気がした。





 頭痛がするくらい、その朝は晴れ渡っていた。
 重いドアを開く。雨水で、地面はぬかるみ、沈んでいた。
 ウィズは、少し手前、少し北の方向に、倒れていた。
 黒く焦げた人工皮膚。落雷が落ちたのだ。
 私は心臓を掴まれる思いをした。
 ウィズ抱き上げる。ウィズは、微笑んでいた。死んだ眼で。
 動かないまぶた。
 動かない笑み。
 頭の中が大きく暴走した。声の無い咆哮を天に叫んだ。
 そして、目の前が、暗くなっていく。

 私は、やっとウィズの存在の意味を理解した。
 ウィズは私の記憶そのものだった。
 ウィズは私の心そのものだった。
 だから、それが壊れてしまうということは、失くしてしまうということは。

 身体が崩れ落ちる。
 暗転する。

 私の精神は、その時、崩壊した。