私は、目の前に転がっている“それ”を、もう一度蹴り飛ばした。
 “それ”は微かなうめき声を上げ、私と同じ血の色の双眼で、私を睨め上げている。
 “それ”の顔は、あの者とよく似ていた。だが、その目の中にあるものは少しも似ていない。
 私は、“それ”の顔面を、ギシリ、と、踏みつけていた。
 “それ”はただ無言のまま、私を睨み続けている。
「……お前は、何が望みなのだ?」
 私は訊いていた。訊きたくなどなかったのに。
 あの者と同じ顔で、あの者と違う群青の髪で、奴は笑う。
「僕の望みは、あなたと同じですよ。」

 憎き、憎き、憎き、お前。
 私では無き存在。あの者では無き存在。完全なる異端よ。私は笑う。
 ああ、お前は本当に……―――










 弱き娘 後編



 風が、強くなってゆきます。
 ブロッブはふと、血で濡れた指先の動きを止めました。その指の先には、まだ幼さが残る武装した青年が、虫の息でうずくまっています。彼は真っ黒のリボンに何重にもぐるぐる巻にされ、強い力でギシギシと締め付けられていました。ブロッブは、彼に最後の「仕上げ」をしようとしていたのです。
 ブロッブの方へ、何かが近づいてきます。
 それを見極める前に、彼女はスッと後ろへ退きました。
 ドンッ!
 黒い雷の弾が、その一瞬前までブロッブが居た大地をえぐり取ります。ブロッブは眉をひそめてその傷跡を見つめ、両腕の力を抜きました。すると傷ついた青年を縛り上げていたリボンはするすると彼女の身体の中に戻り、青年はどすんと大地に叩き付けられます。彼はゲホゲホと咳き込みながらも、よろよろと彼女の視界から立ち去ってゆきました。ブロッブは、彼のことを気にも留めません。どうせ、心を恐怖に打ち砕かれて、廃人みたいになっている筈でしたから。彼女は、たった一点から向けられている強烈な殺気だけに集中していました。無表情だった目に、一瞬だけ怒りが映り込みます。
 ジャムは、品の悪いニヤニヤ笑いを浮かべながら、ブロッブを見下ろしていました。
「……なにをしにきたのですか。」
 その声は厳格な響きを宿していましたが、彼女の表情は強張っています。ジャムが攻撃してきたことに対する異変を、全身が感じ取っていました。だって、例え身体は不完全であろうと、ブロッブの方がジャムよりも上位の存在なのです。本来ならば、ジャムがブロッブを攻撃することなど許されない筈でした。
 ジャムは、相変わらず歯を剥いて笑っています。そしてふいにその指先で、まるで銃を撃つみたいなポーズをし、その爪先がブロッブを捉えた瞬間、3つの黒い光が爆発しました。
「……!」
 バンッ、バンッ、バンッ!!
 一つはブロッブの足下を、もう一つはブロッブが避けたそのすぐ隣を、最後の一撃は、ブロッブの頬を掠めました。赤黒い血が、闇の弾丸の起動に沿ってパッと飛び散ります。ブロッブは血でぬめる頬にそっと触れ、うつむいていたオッドアイの眼はしっかりとジャムを睨んでいました。そこにあるのは怒りと殺意、そして漠然とした「不安」です。
 瞬間、ジャムの中で火が点きました。彼は空中でゲラゲラと、腹を抱えて笑います。
「なァァんだよォ、その眼はァァァァッ!!
ひゃひゃひゃひゃひゃ……何だ、俺が恐いのか?」
 ブロッブの足下から、ぶわっと何かが飛び出します。それは真っ黒の触手……いや、しなやかに闇に同化しながら踊る、細いリボンでした。
 ブロッブから放たれたその束は、恐ろしい鳥の群れのようにジャムへ向かって殺到します。ジャムはただにんまりと笑って、ひらりと宙返りをしました。途端、灰色の炎がジャムの身体を包み、その炎は自らに群がろうとした繊細なリボンを、跡形もなく焼き尽くします。
「……ジャムさま……」
 うつむいたまま、視線だけを上空へ向けているブロッブの血赤と鴇色の眼に、彼女の「色(カラー)」である淡いピンク色……鴇色の髪がかかりました。ブロッブの声はか細く、小さいものでしたが、それに込められた怒りを推し量るのは、そう難しくはありません。
「なぜ、わたしのじゃまをするのです……あなたは、このほしのけいかくにはかんけいがないはずでしょう?」
 それを聞いたジャムの口元に、新たな笑みが浮かびました。それは優しげな笑みでした。彼は、歌うように言います。
「そうだなぁ。ヒュージ様のご命令は絶対だからなぁ……おい、そうだよなァ、ブロッブ?」
「……はい。」
 ヒュージ様の命令は絶対。
 今、ブロッブがここにいるのは、その命令を無視して戦地の望んだからこそです。彼女の表情こそ変わりませんでしたが、彼女の中にあった不安は、確実に翳りを増しました。
 ジャムは、彼女の中に生まれた翳りが、嬉しくて仕方がありませんでした。だって、あの強い彼女が!
 一寸の容赦すら無く、無関係の兵士達から恐怖を搾り取って笑っていたあの彼女が、こんな言葉にこれほどまでに捕らわれている。ジャムにとって、これは最高の喜劇でした。勝てる。ジャムは思います。だから、心を持った奴は弱いんだ。心の隙間から腕を突っ込まれて、そこから真っ二つに引き裂かれちまうというのに。
 彼は続けます。
「……それを破った奴がどうなるかは……わかるよな?」
「…………。」
 戦火が大地を焼く匂いがします。ジャムは、オレンジ色の炎に照らされながら、口元に浮かべていた優しい笑みを、にたぁぁぁぁぁ、と、醜く、醜く、歪めました。
 ジャムは、口ずさむように、言います。

「死んでいいんだよ。」

 バァンッ!
 ジャムの指先から放たれた光が、今度はブロッブの右足を貫通しました。
 彼女がガクンとバランスを崩した瞬間、何十もの黒い弾丸が、ブロッブに襲いかかります。避け切れません。
 バンッ、バンッ、バンッ、バンッ!!
 闇が彼女を打ち抜くたびに、彼女の身体が操り人形のようにたわみました。ダークマターと人間が混ざった彼女の血は、どす黒く汚れた錆色の血です。
 彼女は、左右で異なる色の眼で、その血をぼんやりと眺めました。
 赤でもない。黒でもない。
 どちらにもなれない醜い色。
 どちらかになりたかったのに、何にもなれずにただ汚れてしまった体液の色。
 ああ、きたない。
 きたない、ですね。
 わたしはこんなにきたないのに、あなたのそばにいたかった。
 ……ほんとうは、きづいていました。
 ……だから、
 だからどちらかに、なりたかった……。

「……ヒュージさま……。」

 ブロッブの穴だらけの身体が、ぐらりと倒れます。ジャムはそれを見届けながら、まるで階段を下るかのように一歩一歩、大地へと降りてゆきました。
「……ああ、そのヒュージだよ。
お前を殺せと命令したのは……。」
 何でもないことのように呟きます。ブロッブの開け放した瞳には、何も見えていないようでした。
「好きにするがいい、だってさァ……お前も一緒に聞けりゃあよかったなぁ。
お前なんか、放っといてもすぐ死んじまうってのに……わざわざ殺していいだってよぉ?
……よほど邪魔だったんだな、お前。」
「…………。」
 ブロッブには、自分の頬を伝うのが何なのか、わかりませんでした。
 ただ、吐き気がするのです。
 この身体にまとわりつく、この心を刺激する、全ての存在が、
 醜くて、
 残酷で、
 汚くて。
 そしてそれらは、あくまで自分の鏡にすぎなくて
 醜くて酷薄で汚らわしいのは、みんな自分のことなのだと。
 この真実が、哀しいのでした。

「……ヒュージ…………さま……」

 ぐいっ。
 力が抜けて抵抗すらないブロッブの頭を、髪を掴んで引き上げます。
 真っ正面から顔を合わせているのに、彼女の血赤の眼と鴇色の眼には、何も映っていないようでした。ぼんやりと、ジャムの果てにある虚空の闇を見つめています。
 ジャムは、彼女の顔に唾を吐きかけました。
「……おい……なんで、あいつの名前を呼ぶんだ…?」
 ジャムとブロッブの距離は、もう5cmもありませんでした。ブロッブは無表情のままです。ジャムの中の苛立ちは、既に冷酷で純粋な憎しみへと変わっていました。ジャムは無表情に無感情に、ブツブツと、呪詛のような言葉を吐き続けます。
「わかんねぇんかなぁ……ここにいるのは、俺だろう…?
なのに、何であいつの名前を呼ぶんだぁ…? お前を殺してイイって言った張本人なんだぜ…?
だから俺が殺しに来てやったってのに……なんでこんなに愛せるかなぁ…?」
 髪を掴んでいたジャムの腕は、ブロッブの首元に絡みついていました。
 両手の指の先に、徐々に力がこもります。
 ジャムの中の血が沸騰して、大声で叫んでいました。死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。苦しめ、苦しめ、苦しめ、苦しめ。
 あまりの苦しみに全てを忘れてしまえ。
 あの役立たずの王様を、アタマから追い払え。
 俺に助けを求めればいい。
 哀願しろ。
 自分の罪を、悔い改めろ。
 俺を捨てた罪を
 ああ、罪を。
 罪の罰を、受けるんだ。
 お前なんか、
 卑しいお前なんかには、
 そんな最期がお似合いだ。
 だから……だから、
 おねがいだ
 おねがいだから……。
 ジャムの指が、ブロッブの細い首に、ギリギリと食い込みます。彼の中の憎しみが、呪いが、悲しいくらい深い彼自身の闇に呑み込まれていくことに、彼は気づかないふりをしました。彼の闇は混沌して、彼の息さえ阻みます。
 ギリギリ。ギリギリ。ギリギリ。
 苦しいはずなのに、息をしたいはずなのに、ブロッブは頑なに眼を閉じ口を閉じ、耐えるように眉を寄せているだけです。
 ジャムは既に、無我夢中でした。彼の中には、歪んだ殺意と憎しみと怒りと、耐えようもないくらいの虚しさしかありません。
 耳元で、ヒュルリと、細い布が擦れる音がします。
「――――!!」
 ジャムの身体が、凄い力で何かに引き寄せられ、次の瞬間には背中が地面にぶつかっていました。彼の身体にヒュルヒュルと巻き付く黒い影。リボンです。細いリボンが、彼を完璧に捕え上げていました。
「クソッ…!!」
 彼は倒れ際に、ブロッブの眼を見ました。完璧な侮蔑の顔。彼女が見ているのは、自分より弱い存在、愚かで下等な存在でした。彼女の闇が、ジャムを取り巻き、締め上げます。藻掻くほどに身体の芯へ食い込み、筋肉や骨が断ち切れる音がしました。ジャムの声は、もはや餓えた獣のそれでした。
「クソォオオオオオオオオオオッ!!!」
 彼は渾身の力で、何とか動ける指先に、ありったけのエネルギーを込めます。それは、ブロッブの眉間に定められていました。そしてその一撃は、彼の腕がリボンに巻き取られるその一瞬前に、確かに発射されていたのです。
 タァーー…ンッ!
 軽快なのに深く響く音が、闇を引き裂いてゆきました。
 それに呼応するかのように、ブロッブは、焼けただれて真っ黒になった戦争の大地に、うつぶせで倒れます。
 ジャムの最後の一撃は、ブロッブに当たりませんでした。
 彼女の口から、ゴボッ、という嫌な音と共に、血の塊が吐き出されます。
 ジャムの弾丸が闇を裂いたその時、ブロッブの中の闇が、彼女の身体を引き裂いたのです。
 崩壊は、誰にも止められませんでした。
 ブルブルと震える彼女の両腕を伝って、おそろしいくらいゆっくりと、粘度の高い血が、大地へ向かって降りてゆきます。
「……あ……ぁ、」
 ブロッブの皮膚の一部が、ぷくぅーっと盛り上がり、それから、パァンッ!、と、弾けました。
 強くなりすぎた闇が、ブロッブという名の殻を破って、夜に還ろうとしています。
 夜に。大いなる闇に。還るべき場所へ。不可避である場所へ。ブロッブを捨てて。
 パァーンッ!
 ブロッブの皮膚が、内側で煮えたぎる闇の力に弾けます。飛び散った血は、彼女の顔をべったりと汚しました。ジャムに撃たれた身体中の傷跡から、弾け飛んだ皮膚の穴から、彼女の闇が流れる全ての場所から、赤黒い血が溢れます。
「あ……あ、ぁ……あああっ……」
 腕が、身体が、ぶるぶると震えていました。震えた身体を震えた腕で抱きしめて、ぎゅっと身体を丸めます。痛みは治まりません。恐怖は消えません。破れてしまった砂袋は、砂が尽きるまでそれを吐き出します。押さえても指の間からすり抜けて、もう元には戻りません。
 彼女は、泣いていました。ジャムからどんな言葉を浴びせられても、どんなに身体を傷つけられても涙すら見せなかった彼女は、ヒュージへの後悔と、全てが消えてしまうことへの純粋な切なさで、ただ、泣いていました。
 あの人の傍にいたかった。
 あの人のためになりたかった。
 あの人に、望まれたかった……。
 そのために、ブロッブは最愛のヒュージの命令をあえて破ったのです。だけどそれは、間違いだったのでしょう。最後が1人なのならば、せめてあの人に、伝えたいことがあったのに。
 命の砂はサラサラと、ただ闇に消えてゆきます。ブロッブの意識もまた、砂に呑み込まれようとしていました。
 深い闇が、すぐ近くにありました。

 …………。
 …………。
 …………。
 …………。
 …………。
 ……?

 ブロッブの身体が、宙に浮くような感覚に包まれます。ここはもう死の国なのでしょうか。ブロッブは、重たいまぶたを開けました。
 彼女の目の前にあったのは、暗い宇宙の中で一つだけ輝く、金色の星でした。
 ……いえ。
 ブロッブの眼に、再び涙が溜まります。これは、後悔や切なさの涙ではありません。
 ただ、喜びと安らぎと、愛しさの涙でした。
 ヒュージは、ただ静かに、だけど強張った表情で、ブロッブのボロボロの身体を抱きしめながら、そこに立っています。
 冷たい風が、ヒュージとブロッブの間を通り抜けてゆきました。2人の、鴇色と金色の髪を揺らします。
「……ヒュージ……さ…ま……?」
 ブロッブの声は、からからに乾いていました。ブロッブを抱きしめるヒュージの腕に、力がこもります。
「…………ごめん……なさい…………あなたさまの………ごめいれい……を…………ブロッブ…は………やぶり、まし……た…………」
 としゃっ。
 何かの落下音がし、ヒュージがそちらに目線を走らせると、そこには半分溶けたようになった、幼い少女の腕がありました。腕は赤黒い血にまみれ、ピクピクと痙攣した後、氷のように大地に溶けて、消えてゆきます。
 大いなる闇の王は、自らの胸に、彼女の細く、弱々しい体を、ぎゅっと押しつけました。ブロッブはその抱擁に、困惑した表情で首を振ります。
「ヒュージさま……おやめになって、ください…!
ブロッブは、あなたをよごしたくありません………わたしのちは、けがれています………あなたさまをよごしてしまうことに……ブロッブは、たえられそうもありま……」
「―――……お前は汚れて等、いない……」
 ……この、ぽつりと呟かれた弱々しい言葉に、ブロッブの心はどれほど揺らいだことでしょうか。
 ヒュージの身体は、震えていました。彼の中で生まれた渦は、彼の心を掻き乱し、何かをさせようとしています。揺れることも迷うことも無かった空虚なる彼の意志は、彼の中で初めて生まれたこの「想い」に強かになぶられて、今まであったカタチから、少しずつ変わっていっていました。「ダークマターの王」としてはあり得ない、あり得てはいけない意志。そして、「ヒュージ」としての彼に必要だった……「ヒュージ」という名の人格の意志。
 彼らに過ちがあったとすれば、それは「気づくのが遅すぎた」ということだけでしょう。
 ヒュージは、彼女の頬にへばりついていた、人の血の赤と闇の血の黒が混ざったブロッブの体液を、そのローブの袖で拭います。そしてその震える指先で、まるでこわごわというように、彼女の鴇色の髪を、手櫛を入れながら撫でました。
「……お前は……私の、娘だ…………。」
 ヒュージが呟くその声は、偉大なる王のものとしては不釣り合いなくらい弱々しく、掠れていました。ヒュージの中にある、未だカタチすら捉えられない「何か」に出来るのは、ただブロッブを抱きしめて、その頬や髪を優しく撫でて、笑おうと努めることだけです。何でこんなことをするのか、何で笑おうとしているのか、そもそも、笑うこととは何なのか、それすらもわからないのに。ただ、透明な波紋がいくつもいくつも、小刻みに震える波となって、ヒュージを動かそうとするだけです。
「…………ヒュー……、ジ…………さま…………」
 ブロッブの涙が、彼女の血を溶かします。透き通る流れが、彼女を汚す、生ぬるい闇を洗います。
 ブロッブは、微笑んでいました。涙と一緒に、彼女の闇が流れ落ちて大地に消えて、そして、彼女自身の身体も、もうほとんど重さすら消えているというのに、ブロッブは、笑っていました。涙の意味も、微笑みの意味も、ヒュージにはわかりません。
 彼女は、ゆっくりと、目を瞑ります。
「……わたしは……しあわせ、でした…………。」
 ―――ヒュージの耳元で、ザァァァァ、と、砂が流れる音がします。
 崩壊の音。
 不可避なる運命の音。
 ヒュージの血の色の眼が見開かれます。
「………ブロッブ…!
ブロッブ!!」
 彼は急いで、彼女の身体をかき集めました。腕の中で、ヒュージが「鴇色」と名付けた彼女の光が……淡い淡い、赤味のある薄桃色の光が、雪の粒のように輝いています。ヒュージは、まるで何かに怯える子どものように歪んだ表情で、ぎゅうっと、消えかけたブロッブを抱きしめました。ヒュージの顔も、ローブも、赤黒くべったりとした血で汚れています。ブロッブは、今にも泣き出しそうなくらい優しい笑顔のまま、ヒュージの頬をそうっ、と、撫でました。ヒュージは、彼女の小さい掌の上に、彼の冷たい掌を重ねて、ブロッブを見つめます。見つめることしか、できませんでした。ブロッブの掌から、スッと、体温が消えてゆきます。
「……わたしは…………しあわせ…です…………いまも…………これからも…………ずっと…………
……ヒュージ…………さま……」
 砂はこぼれ落ちます。空へ向かって。闇へ向かって。
 ブロッブは、にっこりと、笑いました。
 まるで、
 ただの幼い女の子みたいに。

「……あなたは、わたしの……ひかりです……。」

 ザァァァァァァァァッ
 淡い光が幾つも幾つも瞬いて、暗い夜空を翔る流れ星のように消えてゆきます。その輝きは、ヒュージの涙をキラキラと反射させてゆきました。
 何もなくなってしまった両腕を、まるで自らの胸に押しつけるみたいにしながら、ずっと、ヒュージはそこに座っていました。
 地鳴りが、します。
 ヒュージの身体の震えと呼応するかのように、暗い大地が弛緩します。
 ヒュージは、かくり、と、顔を天へ向けました。

『――――――あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』

 それは、一瞬のことでした。
 津波のような闇の波動が、一つの国を呑み込みます。
 その円陣の中央から聞こえてくるのは、痛ましいまでに打ち震えた、獣のような咆哮だけでした。
 涙だけが光るばかりで、ヒュージを照らしてくれるのは、自らの闇だけでした。





 ……空が白け、何kmものクレーターの中心でぼんやりと座り込んでいた闇の王に、憮然とした表情で、ジャムが近づいてきます。
 彼は、ブロッブにやられた幾つもの傷を押さえながら、ヒュージの顔を見ようともせずに、ブツブツと毒づいていました。
「……これからどうするんだ、ヒュージ様よぉ…………あんたが何もかも全部呑み込んでくれたお陰で、もう俺等にゃあ何もすることが無くなっちまったぜ…?
……フン…………大人しく俺があの女を始末するのを待ってくれりゃあ良かったってのに…………俺が殺すと言ったのに……」
「……ジャム。」
 ジャムは相変わらず不機嫌な顔で、けれどヒュージの様子に少々不安も感じながら、彼の方を見返しました。青白い空は、まるで世界の闇になど触れたこともないとでもいうように透き通っていて、生まれたての冷えた風が、ヒュージの、陽の光の色の髪をそっと撫でてゆきます。彼は、無表情でした。彼の中には、何も無くなっていました。じんわりと頭の中が痺れたように、全ての存在が不鮮明に見えます。眼を瞑って、自らの星の暗い海に横たわりたい気分でした。ヒュージ・ダークマターが生まれた、闇の王の在るべき場所で、ただ眠っていたい気分でした。
 この空の色は、ヒュージがはじめて見た世界の始まりの日の空の色と、まるで同じでした。
 彼の血色の眼が細くなります。
「……帰るぞ……。」
 ジャムに、この指令を拒否する理由はありませんでした。痛む両腕を押さえながら、口の中ではずっと何かを呟いていました。そうでもしないと、気が狂ってしまうとでもいうように。同じようなことを、瞼に焼き付いた、彼女の血の色と髪の色を思い浮かべながら、ブツブツと。
 ヒュージは、もう一度、さっきまでずっと彼が座っていた場所を振り返ります。そして、表情のない眼でそれを眺めたあと、ふと、自らの胸に掌を置きました。
 ここが、確かに狂おしいほど痛んでいたはずなのに、今では、少しも苦しくありません。だけど、まるで先ほどヒュージの髪を撫でた冷たい風でも住み着いているかのように、まったくの空虚でした。ヒュージは、ふと、ブロッブの掌を握っていた方の腕が、ぶるぶると震えていることに気づきます。折らんばかりの勢いでその片腕を掴み、何とかそれを鎮めようと努めました。
「…………。」
 ヒュージは、もう一度だけ、ブロッブの死に場所を見つめます。そして、眼を閉じ、胸の前で十字を切りました。十字架が彼の核の形だということを、無論ジャムは知りません。
 ボコッ
 圧迫されアスファルトみたいになった土を、一つの芽が押し上げます。ベビーグリーンの若芽は、瞬く間に葉の数を増し、茎の数を増し、それらは重なり合って、絡み合って、天へ天へと伸びてゆきました。
 ジャムは、ヒュージが創り上げた巨樹の墓標を、つまらなそうに見ていました。
 深緑の葉が、戦争も死も、少女の輝きも、全てが消えてしまった大地の上で、その全ての存在を労り、休ませてくれているみたいに、ただ、大きな両腕を広げていました。
 何億もの葉を揺らす、ザァザァという音は、ヒュージの聞いた、ブロッブの光の粒がこぼれ落ちる音に似ていました。
 ヒュージの金色の髪を、木漏れ日がキラキラと輝かせます。
 そして、彼は巨樹から踵を返しました。
 彼はもう、次に侵略すべき星の事だけを考えていました。
 ザァザァと葉の揺れる音が、砂のこぼれ落ちる音が、彼の背から遠ざかります。





























 ――――魔獣ジョーカーは、自らを揺り動かす、微かな震動に眼を覚ましました。
 どうやら、うたた寝をしていたようです。夢の中身は、そう良い内容とも言えませんでしたが、彼は魔獣でしたので、それを気にすることもありませんでした。悪夢の王の支配下に置かれている者が、いちいち悪夢に魘されていてどうしようというのでしょうか。
 彼を揺り起こしていた少女は、自分の働きがけで彼が起きてくれたのがよほど嬉しいのか、満面の笑みを浮かべて彼の胸に向かって抱きつきます。そして、彼の仮面を覗き込んで、にっこりと笑いました。
「ヒュージさま。」
 お互いの褐色の頬をすり合わせながら、甘えた声で、愛しい人の名前を呼びます。
「ヒュージさま、ボクシィひとりはさびしいです。いっしょにあそびましょう?」
 ジョーカーは、仮面の下にある顔をゆったりとほころばせて、ボクシィの鴇色の髪をくしゃくしゃと撫でてやりました。ボクシィは本当に嬉しそうに、コロコロと笑っています。
 彼は、先ほどまで見ていた悪夢のことを思い出していました。今、彼に笑顔を向ける彼女と、夢の中の少女は、同じ顔をしていました。ただ違っていたのは、彼に向けられた表情だけ。嫌悪と拒絶と、愛情と信頼と。ジョーカーが感じているのは、満足感と、名前すら付けられないような、不思議な違和感だけでした。ボクシィは、ジョーカーのことを「ヒュージ」と呼びます。彼女にとって、「一番愛しい人」の名前は「ヒュージ」なのです。彼はそれを受け入れました。「俺がお前の愛しい人だ、だから俺を“ヒュージ”と呼べ」、と。ジョーカーが感じている違和感は、それに何か関係があるのでしょうか。それは誰にも、わかりません。
「……ああ。遊ぼう。」
 ジョーカーは、道化師みたいなローブを引きずって、パタパタと走っていく彼女を追いかけます。彼の皮膚の下には、彼女と同じ顔をした“彼女”に付けられた絞め痕が、今もずっと残っていました。闇色のレールみたいなその傷は、彼が死ぬまでずっと、消えることは無いでしょう。
 ジョーカーは、一番最初の王様と、彼に与えられた名前を捨てた日のことを、そしてその時の、彼の新しい王様との会話を、今も鮮明に覚えています。

「……なぁ、ナイトメア……いや、“魔王様”よぉ。
お前、“鴇色”ってどんな色だかわかるか?」
 この段階で、彼は既に魔獣になる決心をしていました。彼の目の前にいる、氷のように冷たくて、やたら綺麗な顔をした男に、馴れ馴れしくそう語りかけます。彼は既に、“魔獣”としての彼に与えられるべき任務や役目を、全て承知し、そして、その地位というのが、この“魔王様”の次に偉いということも、同時に承知していました。魔王ナイトメアは、表情を変えずに頷きます。なるほど、王様らしい眼をしてやがる、と、彼は心の中で呟きました。視線自体がまるで刃物のように鋭利で、ゾッとするほど醒めた眼です。
「じゃあ、髪はその色にしてくれ。あと……ヒュージ・ダークマターは知ってるよな? “金色なりし闇の王”だ。
俺と、それからあいつのエネルギー組織も一緒に、その女に組み込んでくれ。」
 ナイトメアはそこではじめて、興味深そうに唇を歪めました。ナイトメアが彼に、“お前の望み通りの「部下」を、一体だけ造り出してやろう”と提案した時の会話です。彼はナイトメアの唇を見つめながら、それが笑みと呼ぶべき表情だと気づくのに、少し時間がかかりました。
「いいだろう…………名前は。」
「あ?」
 彼の間の抜けた声に、ナイトメアはスッと表情を消します。魔王の有無を言わさぬ紫色の眼を見て、彼は、自分がナイトメアを苛立たせた事に気づきました。慌てて、何か失敗をした戯け人に相応しい、軽い笑みを浮かべます。
「ああ、名前ね…………そうだなぁ……
……とんだ箱入り娘にしてぇから…………“ボクシィ”。」
 ナイトメアはそこまで聞くと、音も立てずに彼の向かいから立ち上がり、鏡のように磨かれた黒曜石の床を、カツンカツンと歩いてきました。高価な革靴の靴底が、美しい音を響かせます。靴底が床を叩く音に混じって、ナイトメアが笑いながら言った言葉を、彼は、夢を見ているような気持ちで聞いていました。そして、それは全くその通りだと思いながら。
 ここは、部屋の中央に、長く、凝った装飾の彫られた机と、魔王と彼の分の椅子が2脚あるだけの、暗い部屋です。唯一の部外者は、扉の前に直立で立ったまま、身動きもせずにじっと彼らを見つめている、背の低い痩せた魔女だけでした。魔女は、ハートやクラブというトランプのマークが彫られた一本の杖だけを持ち、表情の読めない眼で、彼らの一挙一動を監視しています。魔王の足音を聞きながら、彼は、自らが魔王に向かって生意気な口を聞く度に、その魔女の表情が嫌悪に厳しく歪むことを知っていました。せいぜい、彼女は魔王の“忠実なる手下”とか、そういう立ち位置にいるのでしょう。ぼんやりとそう考えている内に、ナイトメアの足音が消えていることに、彼は気づいていませんでした。すっ、と、暗かった彼の視界に、更に深い闇が落ちてきます。ハッとナイトメアの方を振り返ると、魔王は、神にしか解読できない言葉を呟きながら、彼の頭上に掌を掲げていました。そこからは、紫色のオーロラのような光が放たれています。ナイトメアの声が、次第に、彼にも“聞こえる”ようになってきました。その瞬間、魔王の手の中の光が、青白く変色します。その青白い光を見ながら、彼は、ああ、あの女が死んだ日の空と同じ色だ、と、思いました。

「……―――我が悪夢“ナイトメア”の盟約に従い……―――
“ジャム・ダークマター”よ。
お前を、道化師“ジョーカー”にする。」

 軽い破裂音と血の匂いがしたと思った次の瞬間には、彼の視界に何千何万もの色彩がなだれ込み、フラッシュし、砕け、そして、彼の意識を、暗い暗い場所へと引きずり落としました。気を失う寸前に、耳元で、カツン、と、床を叩く音が聞こえます。大いなる魔王様は、もう自分に興味を失い、踵を返して、あの魔女の守る扉の向こうへ消えてゆくのだろう。いつもそうだ。彼は思います。みんな、俺を必要とするフリをしては去っていく。
 少し前に魔王が呟いた言葉が、彼の耳の中で繰り返されています。魔王がそれを呟いたのは、彼が“ボクシィ”という名前を言った直後です。
「なるほど……お前は、その女を憎み切ることすら出来ないのだな。形と人格を真似るだけでは、まだ足りないか。」
 そして、軽蔑したような含み笑いをしながら、冷たい眼のまま、言うのです。
「ああ、お前は本当に……―――」





「弱い。」









 
弱き娘 終わり