俺はあの女を見たとき、ああなんて哀れなヤツなんだろう、と、思った。 強い癖に、その力を使いこなせもしていねぇ。 ボロボロで貧相なカラダ。 常に浮かべた追い詰められた表情。 だから俺は言ってやったのさ。 「おい小娘、お前その内ぽっくり死ぬぞ。」 女は、今やっと俺が自分を見ているのに気づいたかのように、ゆっくりと振り返った。 ヤツは俺の顔をじっと見た後、呟くように言う。 「そんなことは、ブロッブがいちばんよくしっています。」 哀れな女。バカな女。 たった一人で戦う気でいる愚かな女。 俺のことを見向きもしねぇ。 弱き娘 中編 ……ヒュージ達のダークマターの一軍には、ブロッブの他にもう一体、「心を持った」ダークマターがいました。 その「ジャム」と呼ばれるダークマターは、元々はヒュージの部下ではありません。自然的に発生したダークマターだったのを、その強さを認められて、彼らの一軍に取り入れられたのです。ジャムは、もちろん文句など言いませんでした。服従の証も軽々と立て、無事ヒュージの下に付いたのです。だって、たった一人きりで宇宙を彷徨うということは、心を持つ「生命体」にはとても辛いことだったのです。 ジャムは、ヒュージ一軍の道化(ピエロ)でした。 彼はよく笑い、よく泣き、よく怒って見せました。しかし、ヒュージの前では全くの無意味でした。それもそうでしょう。ジャムには感情があり、知識があり、理性があり、精神があるのに、その主であるヒュージは身も心も闇そのものだったのです。彼が長いこと彷徨っていた広い宇宙と同じように、ヒュージに対してどんな戯けも通じないとわかると、ジャムは自らの精神に、ちょっとやそっとではビクともしない、頑丈な仮面を被せました。そうすることで、ヒュージや他のダークマター達の無感情の中で踊ることへの苦痛を消そうとしたのです。彼の観客は、彼自身でした。 彼はその時、本物のピエロとなったのでしょう。彼は次第に、闇の中で道化を演じることが楽しくなってきていました。 ブロッブが生まれたのは、そんな時でした。その一生の間、一度も歪んだことのないようなヒュージの唇を、嘲りの形に歪ませる相手。 彼女は、とんでもなく強いダークマターでした。 ジャムだって、何の関係もなかった筈の闇の王から直接手を下されるくらいは強かったのです。しかしブロッブのそれは、もはや異常とも取れました。 ブロッブがヒュージに「愛情」を向けていること、そしてあの冷徹なヒュージが、ブロッブに対してのみ感情の片鱗を覗かせていることは、すぐにわかりました。そして、「愛情」を知っているブロッブは、自分と同じく「心を持った」「ダークマターの異端児」だということも。 ジャムの目に、ブロッブはただの稚拙で不幸な少女に見えました。自分の真価にも気づけない、低すぎる望みのためにその一生を無下にしようとしている弱き娘。ジャムも感覚として「愛情」のことは知っていましたが、彼にとってその感情は極めて非生産的で、ナンセンスな邪魔者でした。実際、ジャムは彼女に言ったのです。 「お前を操ってるモンはただの熱浮かれだ。さっさと目ぇ覚ませよ。」 けれどブロッブもまた、その度神妙にジャムを正面から見返し、ふるふると首を振るのでした。 「いいえ。これは、わたしのすべてです。」 そうして、ジャムの事など知りもしないとでもいう風に、くるりと踵を返すのです。 ジャムにとっての「愛情」と同じように、ブロッブにとっての「ジャム」は、ただ自分とは無関係な“何か”だったのでしょう。それ以上でも、それ以下でもなく。 ジャムがブロッブに対して抱いていた感情が、激しい怒りと殺意に変わるのに、そう時間はかかりませんでした。 あの女はどうして俺のことを見ない? 何故まともな受け答えすらしない、 木偶の坊のヒュージに心酔している? この俺が気にかけてやってるのに、 何故、あの女は振り返りもしない? 何故、 この俺を捨てるんだ。 …………気に入らねぇ………… ブロッブめ。 死にかけの出来損いのクセに。 狂った愛に踊らされてるだけのクセに。 ……なぁおい、 お前、そんなにヒュージが好きか。 そんなに死にたいのか。 哀れな奴。 哀れな奴め。 だったら俺が殺してやる。 お前の愛も お前の望みも お前も みんな潰してやるよ。 ブロッブ。 そして俺に殺されたことを、 最期の相手がヒュージじゃ無かったことを 悔やんで、死ね。 ……ザワ……。 闇の淵でひとり目を瞑っていたヒュージは、自らの闇の皮膚を逆撫でするような違和感に顔を上げました。彼は全ての闇を統べる者です。特に、それが配下に置いたエネルギーやその粒子の塊(ダークマター)ともなれば、それらを察知する精度はほとんど自らの神経と同じでした。 違和感の発信源を突き止めた瞬間、ヒュージはふと眉を寄せます。それは、おおよそその部下に似つかわしくない行動でした。最も、今のヒュージの一軍の内、ヒュージの意志から反する可能性のある……ヒュージの意志以外の“意志”を内蔵した人物は、2人しかいませんでしたが。 ヒュージが少しだけその事態について考えを巡らせている間に、ヒュージの意志以外の“意志”を内蔵する者の内の1人、ジャムがケタケタ笑いながら近づいてきました。ジャムはヒョイとお辞儀をして、普段と違う気配を漂わせているヒュージの顔をにっこりと覗き込みます。 「親愛なるヒュージ様、一体どうなされたので?」 ヒュージは、しばし憮然とジャムの顔を睨んでいましたが、ふいに視線を外し、彼に背を向けます。闇と彼を繋ぐ黒い触手が、その動きにしゅるしゅると従いました。 「……ブロッブが、私の待機命令を無視し、暴れている。」 ジャムは「あらまぁ」と、空々しい感嘆を上げました。ヒュージは黙って背を向けたままです。 ジャムは仮面の奥で、ニヤニヤ笑いを大きくします。 「命令無視とは、あの小娘もやりますねぇ。いつもいつもヒュージ様に愛嬌振りまいてたのは、きっとこういう時のための布石だったんですよ。ちょっとくらい勝手に暴れても、ヒュージ様に怒られないようにって♪」 「…………。」 「だってあの小娘は“心”を持った異端者ですよ? しかも出来損いのクセしてバカみたいに強ぇですし。 血に飢えてるんじゃないですか? きっと誰か殺したくて仕方がなかったんですよ。それに俺達ダークマターは、ああいう負の感情をたっぷり吸うことで強くなれます。あの女、きっと自分をもっと強くするつもりなんでしょう。バカですよねぇ、あんな半端なカラダ、自分の魔力を支えるだけでも崩れそうだというのに!」 「…………。」 「でもあの女バカだから、そんなことにも気づけないんですよ……自分がもっと力を付ければヒュージ様に勝てるとでも思ってるんじゃないですか? そしてヒュージ様の玉座を奪おうとしている、と…。」 「…………。」 「……ねぇ、ヒュージ様ァ?」 ジャムはそっと、ねちっこい声で語りかけます。 「あの出来損いめは、この俺が仕留めます。」 そして、にぃぃっと笑いました。 さあ、許可を出せ。 ブロッブを殺す許可を出せ。 お前が出すんだ。 それが、あの女への最強の武器になる。 “ヒュージ様のご命令でブロッブを殺しに来ました”と、 お前こそがブロッブの死を望んでいると、 お前こそがそれを命令したと。 さあ、渋る理由は何もないぞ、心すらねぇ空っぽの王様め! 許可を出すんだ! ヒュージは、かなり長いこと沈黙していました。ジャムもいい加減イライラし始めたとき、彼はやっと、全くの無表情のままで振り返ります。闇の中でただ一つ輝く金色の髪が、血の色の映した赤い双眼を飾っていました。 「いいだろう。死は全てを同じ場所へと帰す。 好きにするがいい。」 ジャムはもう一度だけ盛大に笑ってみせ、今度はその場を去るためのお辞儀をし、そのまま闇の中へ溶けてゆきました。ヒュージは、心の中を欲望に滾らせるジャムの背中から目をそらします。何かが胸に引っかかっていました。もちろん、彼はジャムの戯言などに関心を払っていません。ならばこの感覚は、何なのでしょうか。 ヒュージはそっと、自らの胸に掌を置きます。 何故か、そこが鈍く痛むのです。 「……死は全てを同じ場所へと帰す……。」 ジャムへ向けた言葉と同じ節を、もう一度呟きました。 死は不可避。万物は死によって流転する。死によって新たな流れを生み出し、生を育む。それが我等ダークマターの道程。 死は不可避。それは全ての存在に、平等に訪れる。 死は不可避。 不可避。 ああ、私は何を考えているのだ? ヒュージは自らへ向かって首を振り、この不穏な違和感を忘れようとしました。 ……しかし、これは、何だ? 我が闇の底の底より沸き上がる、私の知らぬ新たな“流れ”。 その新たな流れが、私の意志をしたたかに翻弄する。 私に、何かを与えようとする。 これは、何だ? これは……。 「…う…ッ……!」 ヒュージは、胸を押さえたまま、足を折って前屈みになります。こんな痛み、こんな苦しみは、彼の長い長い人生の中で、はじめてのことでした。 荒く息を吐きながら、自らの中で生まれたその小さな渦を、自らの大いなる闇でかき消すために、じっと目を瞑りました。 ……ブロッブ。 お前が死ぬのは知っていた。 心を持ちし者は弱い。 出来損いのお前は弱い。 お前が死ぬのは知っていた。 だが、 だが…… この痛みは、何なのだ…? ジャムは、ブロッブを始末するためにありったけの闇のエネルギーを体内に取り入れつつも、内心では少々腑に落ちない思いをしていました。 ヒュージが出した“許可”の内容の事です。 彼は言いました。 「いいだろう。死は全てを同じ場所へと帰す。 好きにするがいい。」 ……クソ、大人しく「ブロッブを殺せ」と命じてくれればよかったものを……面倒な言い回しをしやがって。中身は空っぽのクセに。 中でもジャムが特に気に入らなかったのは、「死は全てを同じ場所へと帰す」の一言でした。 まるで、ジャムが手を下そうが下さまいが、ブロッブの死には関係無いとでも言うように。 好きにするがいい、という最後の言葉も、やれるものならやってみろ、と言われている気分になります。 ……気に入らねぇな、オイ…… 暗い目をしたまま、ジャムはヒュージ達の城から顔を出します。その城は、途方もなく巨大なエネルギーが極小に圧縮された、彼らの一時的な本拠地です。森の影に隠れたその城は、この混乱した情勢の星の中で、まず見つかることは無いでしょう。見つけてしまった者がいたとしても、この圧縮された闇の放つ力の強さに本能的に恐怖し、その恐怖を見張りのダークマターに逆に見つけられるのがオチです。そうすれば、闇に全てを掬い取られて、呑み込まれてしまうでしょう。 ジャムには、もうブロッブの姿が見えていました。瞼の奥に張り付いています。街の中で、殺意に彩られた兵士達を惨殺する彼女。負の感情に負けた者達を、さらに貪欲な恐怖で染め上げる彼女。哀れな人々の闇をかき集めて、“強く”なろうとしている彼女。 なんというバカだろう! ジャムは思わず声に出して笑っていました。ブロッブが強くなればなるほど、彼女の身体は自らの力に耐えきれず、いずれは張ち切れてしまうというのに。 ジャムは、風のように街へ飛んでゆきました。笑みを浮かべたまま。それは、ブロッブが今浮かべているであろう狂気の笑みに似ていました。ただ、ジャムのそれにはあらゆる感情が入り交じり、どろりと混沌した笑みで、ブロッブのそれはただただ純粋な望み、それを叶えるだけの力が自分にあるという喜びからでしたが。 殺してやる。ジャムは呟きます。殺してやるよ、ブロッブ。この俺が。お前に最期をくれてやる! ……黒い煙を暗い空に灯す、焼けた港町が視界に開けます。 |