わたしは、ヒュージさまのあとをおいます。
 ヒュージさまはほしにおかえりになられるのです。
 わたしはヒュージさまのてしただったので、それにしたがいます。
 そんなときでした。わたしのなかに、きゅうにことばがうまれます。
 わたしはそれを、ヒュージさまにつたえました。
「ヒュージさま、ブロッブはあなたをあいしています。」
 いだいなるやみのおうさまは、そのいっしゅんだけたちどまり、わたしをみかえしました。
 ヒュージさまはれいこくなめでわたしをみて、たったひとこといいました。
「出来損いの分際で、この闇の王に口を利くな。」

 ヒュージさま、ブロッブはあなたをあいしています。
 わたしはできそこないのブロッブ。
 わたしのめにはヒュージさましかうつらない。











 弱き娘 前編



 そのダークマターは、とても変てこなダークマターでした。
 半分は完璧なダークマターなのです。けれどもう半分は人間のままで、しかも強い「力」を持っていました。
 ダークマター達の歴史のある時から、一定の、そして特異な力を持つダークマターには、同時に「色」が宿るようになってしまったようです。そのダークマターは、そんな「色」を持ったダークマターの一族で、彼女の王であり親であるヒュージ・ダークマターには、「鴇色の闇」と呼ばれていました。鴇色、というのをブロッブ自身が理解するには時間がかかり、それまではずっと、「時色」、だと勘違いしていました。ときいろ、ときいろ、ときのいろ。ヒュージさま、わたしのそれはときのいろなのですか? そう、彼に聞いてみたこともあります。ヒュージは全く無表情に、「鴇色は、鴇という名の鳥の、風切羽の色のことだ。」と教えてくれました。その後無表情のまま、「もう黙れ、無知なる愚図よ。」と付け足して。
 ヒュージは、ブロッブを自らの戦力以上と見なしませんでした。彼女は本来なら、終わりが近づきつつあるヒュージの跡取りとしてその力を発揮するべきだったのに、不完全な肉体は自らの闇の力に耐えきれず、ふとするとボロボロと、自らを傷つけていました。彼女は痛みを感じません。ただとても不安になるのです。
 わたしはいきなくちゃいけない、ヒュージさまのために。
 ヒュージさまのふところでうまれることができたのだから、わたしはヒュージさまののぞまれるそんざいでなければならない。
 自分の身体から流れ落ちる、赤黒い血をかき集め、何とか自分の形を整えて、呼吸と思考が普段と同じに戻るまで、彼女は自分に向かってそう何度も呟きます。
 けれど、ヒュージは彼女に何も望んでいなかったのです。ヒュージは闇の王であり、その大いなる闇で、宇宙を覆い尽くさんとせし者達でした。なので、壊れやすくて喧しいブロッブに、「強さ」以上の価値は存在しませんでした。ほとんど不死である彼に、一時的な「強さ」など、それきりの意味しかなかったのです。
 ブロッブは、ヒュージに忠実でした。また、彼女がそれに気づいたのは、彼女が自壊する直前になってからでしたが、彼女は確かに、ヒュージを、愛していたのでした。
 不必要な愛です。彼女も彼も、「愛」の意味を知りませんでした。



 ……その星の海は、甘く煮詰めた内蔵の匂いがしました。
 極めて有機的な匂いです。水平線は乳白色で、波打ち際は薄い錆色でした。
 昔、ヒュージが彼の弟と見た海と、とてもよく似ていました。
 あの時の風景は遙か、本当に遙か昔の風景で、風はもっと清く空は高く、けれど海の色ばかりがどこか濁っているような、そんな静かな変化がはじまっていた時代でした。
 宇宙を、ダークマターに支配させる。
 神々が、それを決める直前です。
「アウラ。」
 その弟は、ヒュージのことをそう呼んでいました。多くの人間が彼を「偉大なる闇(ヒュージ・ダークマター)」と呼ぶようになる更に前の事でしたから。弟……エーゲは、彼の隣に立ち、灰色の海を見つめていました。
「闇の勢力は止まらない……我の眼も血の色に濁ってしまった。アウラはどうだ?」
 アウラは風に撫でられる金色の髪を掻き上げ、そっと指先で、片方の眼を撫でます。その下にあるのは、弟と同じ、血の色の瞳でした。元々は純白の、穢れ無き色だったその瞳。宇宙に蔓延した戦いと殺戮の闇は、神の眼を血の色に染め上げました。彼は頷きます。
「世界は血と闇に塗りつぶされてしまった……見よ、この黒き衣、血赤き眼を。
私達は世界の化身に過ぎぬ……世界が闇に狂うのならば、我々は闇の世界を創ろう。生き物が正なる感情を棄て、負の感情を求めるのならば、それぞ我等が道程だ……
闇に適応せし世界を。
闇の淵に於いて苦しまぬ世界を。
……エーゲよ、お前はどうするのだ。」
 彼の問いに、エーゲは頷き、その短い銀髪を風に吹かれるに任せました。
「我もアウラと同じ意見だ。“空気”を吸って生きるのならば“空気”に毒はいらない。“闇”の世界に生きるのならば、“闇”に苦しみはいらない。」
 アウラもまた、彼の隣で頷きます。
「そうだ……我等は大いなる闇の流れになろう。天から降り、弱き魂達と共に歩もう。」
 澄んだ空に、重たい雲が流れてゆきます。
 変わってゆく世界。
 それを見つめる2人の神の眼。
 この世界の多くの魂達にとって、血を散らし闇を吐き出すことが心地良い生き方ならば、神々もそれを受け入れる。
 それが世界の、真理でした。

 目の前に広がる灰色の海岸線を眺めながら、ヒュージは鈍い地響きを聞いていました。隣に立っていたブロッブも、その同じ音を聞きます。そちらの方を振り返り、少し意識を集中させたあと、彼女は再びヒュージに振り返りました。
「……ヒュージさま、たくさんのたましいたちが、こちらにむかってきています。」
「知っている。」
 ヒュージは、眉一つ動かさずに言います。
「放っておけ。どのみち奴らの自滅戦よ。我等が手を下すまでも無い……
……それともお前は気になるのか? その不完全なる半身が、奴らの叫びに疼くのか…?」
 ヒュージの声には、嘲笑の響きすらありました。ブロッブは無言で自分の身体を見おろし、そのまましばらく黙っていました。その間に、ヒュージは彼女の隣をすっと横切り、浜辺の向うに歩いてゆきます。ブロッブは下を向いたまま、気配だけでそれを感じていました。顔を上げることができなかったです。
「お前は待機していろ、ブロッブ。」
「…………。」
 ブロッブは、ヒュージの気配が消えてしまってからもずっと両手を握りしめて、波打ち際に立っていました。
 ヒュージさまは、ブロッブのことがきらい。
 いだいなるやみのおうさまは、よわいものがきらい。つかえないものが、きらい。
 わたしはよわい。
 わたしはつかえないこま。
 ヒュージさまにとって、ブロッブはいらないもの。
 どうして?
 ……ブロッブは、顔を上げて、目の前にある寂れた、そして哀しく冷たい風情を漂わせている、一つの港町を見つめました。この町に、今一つの軍隊が迫っています。闇の溺れた人々が、絶望に身を寄せる弱者達とその歴史を、木っ端微塵にするために。
 ブロッブは、町に向かって歩き出しました。
 遠くで何かがフラッシュしているのが見えます。薄闇の中で、波の音に続く銃声。
 ヒュージの命令に反することへのチクチクとした痛みが、ブロッブの中で彼女を引き留めようとしていましたが、無駄でした。だって彼女の中の衝動も痛みも、全てヒュージの為のものだったからです。
 幼い少女の足が、浜辺と道路の間にかかる、細い階段にかかりました。
 空を裂く、大きな煙が炎に照らされている町へ向かって。

 どうして、ブロッブはいらないものなの?
 それは、ブロッブがよわいから。
 それは、ブロッブができそこないだから。
 わたしはヒュージさまのもの。
 ヒュージさまはつよいダークマターがすき。
 できそこないじゃなくて、つよいダークマターが。
 つよい、つよい、つよくてがんじょうで、
 わたしみたいじゃないダークマター。
 わたしはつよくならなきゃいけない。
 ヒュージさま、
 だから、
 わたしはわたしをすてます。

 ブロッブは、無表情でした。目ばかりを爛々と輝かせ、それは獲物を狙う猛禽類によく似ています。ブロッブは既に、誰かの悲鳴を聞き分けることが出来るくらい、町の中に入り込んでいました。暗い影の中を、閃光が走り、更にそれを、幼い少女の影が追います。ブロッブは、その時はじめてにっこりと笑い、両手を広げました。

 ヒュージさま?
 そうすればヒュージさまは、わたしをみてくださりますか?
 ちゃんとしたダークマターになれば、
 わたしは
 あなたのなにかになれますか?

「できそこないは、もういやなんです。」
 少女の乾いた声が、ぽつりと夜闇にこぼれ落ちます。
 そうして、ガクンと、両手を振り落としました。
 迷彩服を着た何人かの男達が、まるで見えない糸に吊るされたかのように、宙に投げ出され、もがきます。
「ブロッブは、あなたのよわさになりたくない……。」
 そしてもう一度、両腕を振り上げました。
 ブヅ、ン!
 空中で、何かが弾け、潰れ、折れる音がします。
 宙に浮かんだ死体から、四方八方へ血が飛び散ってゆきました。
 口元を掠ったその血を舐め、満足そうに微笑みました。
 甘美な甘美な、恐怖の味。
「……ブロッブは、つよいです。」
 だからもっと、つよくなります。
 黒い影のオブジェのようになった死体達の下を走り抜け、ブロッブは更に銃声の激しい方へと向かいます。
 顔に張り付いたその笑顔は、闇を漂う濃い死臭を吸い込む毎に、狂気を増してゆきました。