瞳のエレジー 前編



 アイカの手は、冷たかった。それに、ひどく乾いていた。それもそうだ。アイカは、ここ数日、まともに水分すら摂っていない。アイカは精悍で、優しく、心の強い少女だった。それでも、空気に溶けた砂埃と灰と煙は、アイカの心を、肉体を、染み込む毒のように消耗させてゆく。それらを洗い流してくれるはずの水は、泥になって足元を掴んでいる。……もう、何日も寝ていない……。

「……―――……、―――?」

 アイカは、僕の名前を呼んだ。僕は朦朧と意識を失う寸前だったらしい。アイカの手のひらが遠慮がちに、僕の頬を叩く。
「大丈夫、―――?」
 咽の中がからからに乾いていた。筋肉の中、血管の中、関節の中にまで、砂の粒子が入り込んでいるようだった。
 僕は、すぐに返事ができなかった。けれど、アイカを安心させたくて、弱々しく微笑みながら、うなずいた。アイカの掌が、僕の頭を撫でる。そして、後ろ頭を抱いたまま、彼女の胸が僕を抱いてくれた。冷え切った、アイカの胸。その奥の、熱を失っていない鼓動は激しかった。アイカの指先は、皮が剥け、乾燥し、荒れていた。痛々しかった。僕は、アイカの抱擁から逃れたかった。これじゃあ、まるで、最後の抱擁みたいじゃないか。そんなのは、いやだった。いやだった。
「いや……だよ。」
 僕の声は、どんなに乾いていただろう。砂漠の風のような声だったに違いない。僕はアイカを見上げた。悲しかった。アイカの疲れ果て、消耗しきった顔を見るのが、辛くて仕方がなかった。アイカも、もしかしたら、そうだったのかもしれない。頬にばかり血が昇り、手先の方は逆に、寒さでしびれ、感覚すらなくしてしまった。僕の顔にこびりついた、拭いても落ちない煤の汚れ。
「いやだよ、アイカ。」
 アイカには、僕が本当に抱擁が嫌なのではなく、こうやって、悲観的な気持ちばかりを共有することが嫌なのだということが、わかっていたのだと思う。僕は泣いていたらしい。アイカの痩せた指先が、僕の目尻をなぞり、その水滴が、彼女の肌に染み込んだ。僕の涙が、彼女の肌を、少しでも癒すことができるなら、僕はいくら泣いてもかまわないと思った。けれど、アイカは、僕をもっと強く抱きしめただけだった。僕達は、不幸だった。

 ……お母さん、お父さん……。
 僕は、聞き逃さなかった。アイカが、僕を抱きしめながら、心の底からの悲嘆を込めて、そう呟いたことを。
 そのかすかな呟きに混じっていた、もう、決して彼らと再会することは無いという確信と、2度と取り戻せない黄金色の輝きへの想いを、僕は彼女と共有することしかできなかった。
 アイカは泣いていた。僕の固く閉じたまぶたが、どうしようもない不定形の灼熱に、ぽろぽろと悲しみを吐き出していた。





 僕は、拾われた子供だった。
 どこで、どうやって拾われたのか、僕は無論、覚えていない。アイカと、アイカのお母さんとお父さん、僕を育ててくれた彼女らの話によると、非常に透き通った、星の降り注ぐような夜に、僕を発見したらしい。
 この星、この国での戦争は、もうずいぶんと長く続いていて、もはや収拾は着かなくなっていた。勝ちや、負けなど、意味がなくなってしまっていた。疲れ果ててどちらかが、もしくは両方が動けなくなるまで、この戦争は続くのであろう。
 そんな時代だったので、自分たちの子供以外に、もうひとり、それも拾ったような子供を育てるなど、「正気の沙汰」ではなかったし、「並大抵」のことではなかった。それでも彼らはやってのけた。その星の住民とは違う色の髪をした僕を、半ばかばうように育ててくれた。僕は、彼女らを、誰よりも、何よりも、信用していた。
 戦争が激化しはじめ、僕達はばらばらになった。大人であったアイカのお母さんとお父さんは、それぞれ戦争の援助をしに出かけなければならなかった。彼らはアイカと僕と、精一杯の愛情とをこの街に残して、行ってしまった。二度と帰って来れないであろう、遠すぎる場所へと行ってしまった。





 ……地鳴りが、した。
 ぞくっ、と、寒気に似た気配が、僕の背中を走っていった。地面の奥から響く、彼方からの絶叫のような地鳴りの数秒後、後を追うような爆音が、低く低くこだました。
 僕の中に、鋭く輝く一本の剣があった。僕は、その剣に急かされるように、アイカの腕を振りほどき、防空壕から逃げ出し、崩れた鉄筋コンクリートの、一番上までよじ登った。夜風が僕を追い返そうとするように、死臭を乗せて僕の頬を引っ掻いた。
 遠く遠く、ここよりも技術の集中している「機械街」の方が、赤く照らされている。血のような赤で、僕は一瞬、闇の大地が地上の憎しみに耐えきれず、血を吹いているのかと思った。違う。あれは、炎だ。あの中で、何人もの人間が死んでいる。炎が燃えている。不幸なる人々の悲鳴を燃料にして、踊るように、踊るように、燃えている。
 僕の眼は、僕の中のもう一つの眼は、あの炎の主を見ていた。そいつは、悪魔だった。黄色い翼は赤く照らされ、頬の赤いハートマークを、冷たい涙が伝っていた。裂けたような嘲笑の唇、狂った笑い声。狂った笑い声。狂った笑い声。
 息切れがする。僕はたまらず、胸を掻きむしっていた。苦しかった。憎しみが、後から後から沸き起こってくる。身体がブルブルと震えていた。憎くて憎くてたまらなかった。違う。これは、僕の、意志じゃ、ない。違う。違う。違う……

 ……僕は、やっと、僕を取り戻したんだ。

 嫌だ。
 違う。
 これは僕じゃない。
 違う。
 これが僕だ。
 違う。
 僕じゃない。
 僕だ。
 違う。
 僕じゃない。
 僕だ。
 僕じゃない。
 違うよ。
 違う。
 僕……だ。
 僕、じゃ、な……い。
 僕だよ。
 ……ちがうよ……。

「―――!!」
 僕は、ハッと正気を取り戻した。僕は泣いていた。僕は、見つけてしまった。僕ではない部分。僕の核である魂から発せられた、僕の本当の光。
「―――、どうしたの、―――!!」
 アイカが、僕の名前を呼んでいた。僕は、アイカに謝りたかった。僕は、今から、アイカが絶対に望まない事をしなければならない。僕は、アイカを愛していた。アイカの向けてくれた愛情は、僕の心を作ってくれた。
 でも、僕は、僕の魂に従わなければならない。
 空は晴れていた。星が落ちてきそうな空だと思った。
「……ごめんなさい。」
 風が強かった。言葉なんか、当然かき消されていた。それで良かった。でも、アイカには、届いていた。
 アイカの表情が、一瞬止まる。アイカは、僕の全てを理解してくれていた。そして、それを受け入れてくれていた。
「ごめんなさい。
ありがとう、アイカ。」

 銀色の星がひとつ、僕の前に、音もなく落ちてきた。
 ワープスター!
 僕の魂が叫んだ。いや、実際に、僕は叫んでいたのかも知れない。右手に、剣を握りしめていた。その剣は、虹色に輝いていた。
 僕は、星の戦士だ。
 あいつと戦わなくちゃいけない。





 僕は、悲しかった。
 僕を捨てるのが、悲しかった。
 アイカを置いていくのが、悲しかった。

 アイカ、アイカ、少しだけ待ってて。
 僕は、必ず、戻ってくるから。
 そうしたら、もっと安全な場所に逃げよう。
 この剣と、この小さな星で、必ず君を守るから。
 だから、少しだけ、待ってて。
 アイカ。

 僕は振り返らなかった。ワープスターが銀の軌道と僕の涙を残して、闇を切り裂いて翔る。
 マルクォール。
 僕はお前を許さない。