※このお話にはグロテスクな表現があります。ご注意ください。





 許して下さい
 僕の罪を、許して下さい
 生まれてしまったことを、許して下さい
 どうか
 あの人と出会ってしまったことを、許して下さい

 僕は 本当は 知っていたのです
 あなたを踏みつけることでこの世に生を受けてしまったことを
 あなたの望みを叶えられなかったことを

 あなたを犠牲にして
 この幸せを手にしていることを

 許して下さい
 お願いします、許して下さい
 僕は
 僕は

 もう 選べないのです
 あの人と出会ってしまったことを
 ああ どうか
 どうか



 許して 下さい…










 或る独つの悪夢










 ……僕は、走っていた。なるべく早く、なるべく早く。……逃げなければ、今すぐに。逃げて、逃げて、逃げて……逃げて、「帰らなくては」。そう、帰らなくちゃいけない。僕には、帰るべき場所がある。帰らなくてはいけない場所……あの人の、場所……。
 ザァァァァ
「……く、ぅ…!」
 ああ、またこの音だ。これは、何の音だろう? 僕は、妙な音と共に襲いかかってきた鋭い頭痛に耐えるために、潰れるほど強く、頭を抱える。
 だめだ。立ち止まっている暇なんか無い。僕はまた、よろよろと走り始めた。膝が折れそうになる。耐えろ。耐えるんだ。行かなくては。僕は、帰らなくては。
 帰……。
「……どこへかえるつもりなのですか?」
 目の前には、1人の少女がいた。
 嘘だ。嘘だ。追いつかれた? 嘘だ。さっきまでいなかった。彼女の血の色の片目と、鴇色の片目が、嬉しそうにほころぶ。ああ、あああ。逃げなくては。今すぐ。
 僕は瞬時に踵を返した。砂を掻き、転げるように走る。彼女は動かなかった。動く必要も無かった。
 ピンッ!
「!?」
 脚が何かを巻き込み、重心が崩れる。僕は思いきり地面に叩き付けられ、その衝撃で目の前が白くなった。足首から、何かが折れた音がする。同時に、そこから伝わってくる、焼けるような痛み。僕は小さなうめき声を漏らした。
 ずっ、ずっ、ずっ
 頬をこする砂の感触と、この、気持ち悪い、音。ゾッとして、急いで目を開ける。脚を動かそうとして藻掻くが、折れた方の片足が、何かに掴まれているかのように動かない。振り返った。僕の変色した足首に絡みつく、真っ黒のリボン。それは、強い力で僕を引きずる。僕は恐怖のあまり悲鳴を上げた。
「ああっ、あ………い、嫌っ……止め…ッ!?」
 ずるっ、ずるっ、ずるっ
 必死で藻掻いた。砂を掴もうとした指の関節は真っ白になり、懸命に地面を押さえようとした肘は、血を吹き出していた。関係無かった。ダメだ。捕まるわけには、いかない。逃げなければ。逃げなければ。……逃げなけれ…、ば。僕は、足首を捕えているリボンをキッと睨んだ。そしてそのリボンを、何とか引き千切ろうと両腕で掴む。白く染まった指と掌は、次の瞬間には青くなり、さらにひどい色になった頃には、もう痛みさえ感じなかった。切れない。血が滲む。切れない。ずっ、ずっ、ずっ。その音に頭をやられたかのように、僕は、今度はその足首自体を掴んだ。この接続部さえ、切れれば。そうだ、リボンを切る必要もない。これさえ切り離せば。僕は、僕の足首を、渾身の力で殴った。両手を振り下ろし、ごぎん、という鈍い音がするまで。もう一度、振り下ろす。ぶぢん。振り下ろす。振り下ろす。ぶぢん。ごぎ。ごっ。ぶぢゅっ。すばらしい。潰れて、ぐらぐらになった僕の足首を見て、僕は希望を感じた。片手で膝を押さえ、もう片手で、足首を掴んだ。何の迷いもなかった。
 ぶちぶちぶちぶちっ
 もう少し。もう少し。痛みが脳の中になだれ込んでくる。僕は、宙に浮くような感覚を覚える。両腕から、力が抜けそうになる。もう少し。もう少しだ。……自由になれる。
 ぶちぶち、ぶちんっ ぶしゅうぅ!
 やった! 血でぬるぬるになった両腕で、僕は歓喜を受け止める。逃げられる。これで、これで、やっと。やっと。僕は、自由になったことのあまりの喜びで、僕の隣に誰がいるのか、わからなかった。
 僕は急いで立ち上がり、けれど片足が欠けているせいで、うまくバランスを保てず、転んでしまう。苦笑して、今度は慎重に立ち上がろうとした。痛みと血が、僕の身体から抜けてゆく。ふらふらする。眩暈が、する……。
「……ねぇ、おにいさま。」
 ……眩暈が……する……。
「おにいさまは、どこへかえるおつもりなのですか?
ブロッブに、それをおしえてください。
おにいさまにかえるばしょなど、あるの?」
 息が変になる。
 荒く浅い呼吸を、何度も何度も繰り返した。僕は何をしている? 僕は狂っているのか? 答えは出ない。追いつかれた。もう逃げられない。ブロッブは、座り込んだ僕の前で、そっと、膝をついた。そして、どくどくと血を流している僕の足首を、ゆっくりと、撫でる。僕は 狂ってしまっているの だろう か。 どうしてあなたがここにいる? ブロッブ。どうしてあなたが。 そして僕は 僕は   だれ?
「……かわいそうなおにいさま。」
 ブロッブは僕の顔を覗き込みながら、不思議な表情をしていた。哀れみと蔑みと、苦さと甘さと。僕はどうしてここにいるのだろう。どうしてあなたがここにいるのだろう。だって、僕達は、一緒にいては、いけない筈で。だって、僕達は。僕は。僕は。
 ああ。だめ。かえらなくては。帰らなくちゃ。僕は誰? 帰らなくちゃ。頭が痛い。あたまがいたいよ。苦しい。
「……帰らせて、下さい……お願いします…………僕は、帰らなくちゃ……いけないん、です…………ブロッブ、道を…………道を、あけて下さい…………ブロッブ……。」
 僕は、それを強く訴えるつもりだった。けれど口から出てきたのは、溜息のように弱々しいものばかりで、僕は自分で自分に失望した。声を張り上げて、叫ぼうとした。帰らなくちゃいけないから。けれど、息が、できない。どうして。息。できない。パクパクと口を開ける。首に絡まる、黒の、リボン。ああ。逃げなくちゃ。にげなくちゃ。息をしなくちゃ。帰らなきゃ。
「おにいさまは、わたしたちをうらぎったのに……」
 ザァァァァ
「……どうして、かえるばしょなどがあるのですか?」
 ザァァァァ

 そう。
 僕は 全てを 裏切った。
 あの人を愛したから。
 あの人と出会ってしまったから。
 血も
 力も
 父も
 あなたも
 故郷も
 僕が生まれたときに与えられた
 僕が生きるために与えられた 全てを
 僕は 裏切った 裏切ったんだ
 ザァァァァ
 これは 当然の 罰。
 砂が落ちる 音がする。
 ザァァァァ
 ザァァァァ
 ザァァァァ

 リボンが、きゅうっ、と、僕の首を、締め付けた。
 最初に、息が止まった。そして全ての匂いが消え、首筋を中心に、全ての感覚も、同時に消えた。
 視界だけが、やたらと澄んでいた。
 僕の砂が落ちる。
 彼女の死と同じように。
 ザァァァァ
 僕の闇が、僕の愛が、僕の思い出が、僕の命が、ぼくのゆめが、すなとなって、やみに、きえる。
 うけとめてくれるひとは だれも いない。
 ザァァァァ
 ザァァァァ

「…………おにいさま…………。」
ブロッブ。あなたにだけは、ちゃんと謝らなくちゃ。頭ではわかっているのに、声が、出ない。どうしてだろう。ブロッブ。ブロッブ。
「……わたしのねがいは……たったひとつだけ、でした……。
……わたしは、ただ…………ヒュージさまを……
…………あいしてほしかった、だけなのに……。」
 ブロッブ。ごめんなさい。僕はあなたに、なれませんでした。
 あなたの命と心を引き継いで生を受けたのに、あなたの望みを、ただの一つも、叶えられませんでした。
 僕の砂はもうすぐ尽きてしまう。
「ねぇ、おにいさま……
あなたがえたものは、なに?
おにいさまがもとめたものは、なにもかもをすててまでてにいれたものは、いまもおにいさまのてのなかにありますか?」
 ごめんね。ブロッブ。も う     なにも きこえな い。

 砂が尽きてしまう。
 ここは暗い悪夢。
 果てしない闇。
 僕は歩き続ける。
 帰る場所は、どこ?





 おしまい。