短編 コントラスト その男は、彼女の髪を見ていました。彼女は彼に背を向け、日を反射させてきらきらと光る、光の川のようなそればかりを見せつけます。 空色を、もっともっと鮮やかにしたようなライトブルー。そして春の陽の白いコントラストと、その粒をまぶされた、美しく長い髪です。 「……ドロシー。」 男は、彼女の名前を呼びます。 しかし、彼女は振り返りませんでした。振り返らないまま、彼女が描いている自らの肖像画に、筆を当てるばかりです。そのパレットの中の彼女の唇が、少しだけ微笑んだような気がします。 彼らが今居るこの場所は、草原の真ん中です。そこに、白い石で出来た庭園があり、その庭園の壁にはそれぞれ、7枚の壁画があります。その壁画は、カラーもタッチも違う、けれどそれぞれが静かに美しく、また描かれた自然の、その未知なるエネルギーを放っていました。その絵達に囲まれながら、ドロシーは自らの肖像画を描いています。 「あなた……ナイトメア、っていうのよね?」 ドロシーは、彼女自身の髪の色を、そのパレットに描きながら、澄んだ声で聞き返します。 これは、多少なりとも驚くべき事でした。まず、彼女がこの、見知らぬ筈の男の名前を知っていること。そして、振り返らずに、その正体を当てたこと。しかし男は顔色も変えず、ドロシーを冷たく睨むだけです。この男に、感情らしい感情は感じられませんでした。彼から感じるのはただ、断崖のような絶望感と、畏怖のみです。 ドロシーは、今度は少しだけ笑います。 「あなたが、私のことを捜していたのは知ってたの……私もちょっとした有名人だけど、あなたもとっても、有名人だから。」 サラ、サラ… 風の音と、ドロシーが筆を走らせる音が同化しています。ドロシーの筆遣いは、まるで魚が川を泳ぐように、鳥が風に乗るように、とてもとても自然で、そして、正確でした。色も形も、音すら一枚の「絵画」の中に取り込んで、世界を描きます。 世界を、創ります。 「……ねぇ……あなたがどの世界から来た人か、私、知っているわ。」 サラ、サラ…。 ナイトメアは、無表情のままです。冷たい彫像のような。 「あなたの世界。 あなたの望み。 あなたの痕跡。 あなたの役目。 あなたの希望。 あなたがあなたである理由。 ……たぶん、みんな私が知っている通りだと思うの。」 ナイトメアは、そこではじめて口を開きました。深く狭い鍾乳洞の底、そんな寒くて暗い場所から響くような、低い声です。彼の眼は、冷ややかさを増していました。冷酷な怒りがその眼によぎります。 「……私に、希望などは無い。」 ドロシーは、笑います。 片方の筆で世界を描き続けたまま、笑います。 「あら、じゃあナイトメア? あなたがこの世界で“悪夢”を名乗るのは何故?」 「…………。」 ナイトメアは、ドロシーを強く睨みましたが、彼女には彼の魔性も怒りも、全くが通用していないようです。 彼女は、たぶんとてもとても、意地悪そうな表情をしているのでしょう。少女のように、可憐な明るさで。 ドロシーはなおも言います。 「世界は、あなたの掌に余るのよ。」 「……黙れ。」 ナイトメアは、一歩、ドロシーに近づきます。彼女と彼の距離はほんの7歩ほどでした。 「私に不可能などは無い。 同時に、私に希望は無い。 だがそれら全ては当然の事なのだ。私には未来が無い。だからこそ世界を壊す。」 ドロシーは最後に、彼女の眼の金色を、その絵の世界に描きました。 その双眼は挑発的で、強気に、ナイトメアを見返します。 「あなたが持ち得ない、そしてこの世界のあらゆる生き物が持ち得るその輝きが、あなたが望む真実かしら?」 「違う。」 「ねぇあなたは、世界が例えば透明で空虚なガラスで、だから簡単に壊し、色を変え形を変えることができると、信じている?」 「……下らぬ思考だ。」 「そう……とても、下らない。 でも、あなたがしていることも同じよ。 全く同じ。 あなたは、いったい何を得ようとしているの?」 ナイトメアは、もう、ドロシーの真後ろまで来ていました。 「……大丈夫、あなたには私を殺すこともできない。」 彼女は静かに呟きます。 筆とパレットを、小型のテーブルの上に置き、ゆっくりと、振り返りました。 目の前にいる、彼女。 キャンパスに住む、彼女。 彼女たちの、白くきめ細やかな肌と、ふんわりと柔らかなその髪に、春の日差しが反射します。 彼女たちは、微笑んでいました。 「だから……言ったでしょう? 世界は―――。」 タァーンッ ドロシーの頭が、打ち抜かれます。 ライトブルーの美しい髪が、ゆっくりと軌道を描き、横に倒れてゆきました。 その銃弾は、ナイトメアの意志ではありません。 ナイトメアには、どうすることも出来ませんでした。 ドロシーの言葉が宙を舞います。 ―――世界は、あなたの掌に余るのよ。 「……ドロシー・ソーサーを撃ち殺したのは、彼女の婚約者でした。 魔王様もお調べでしたように……ドロシー・ソーサーは銀河史に残る名画家と謳われていましたが、その反面、あまりに素晴らしい絵の魅力に取り憑かれる人間も多く、彼女の絵がきっかけとなって自害したり破綻した者も少なくはなかったようです。 この男は……彼女と結婚することでの、世間から与えられた中傷や好奇の目、それらの負担に耐えられなくなり、彼女を殺し、自らもその場で自害しました。 ……また、彼女はあらゆる絵画を手がけましたが、肖像画はこの一枚のみだそうです。」 リルゼンは、淡々と報告を続けます。 ナイトメアが握っているのは、ドロシーの筆と、パレットです。彼は数度絵の具を混ぜ合わせた後、キャンパスに向け顔を上げました。キャンパスには、死の直前のまま時を止められた、ドロシーの優しい微笑みが広がっています。 彼の傍らに放られたドロシーの肉体は、二目と見れぬ醜い姿に変貌していました。 美しかったその肌も、顔立ちも、胸も、眼も、口も、髪も、それぞれが引き千切られ、裂かれ、めくり返され、破壊され、潰されていました。月の光が彼女の艶やかな部分に反射し、真紅の光を放っています。もしくはバラ色、もしくは白、もしくは形容することさえできない、濁った混沌の闇の色です。遠目からのそれは、咲くことを恐れて、おずおずと月に語りかける、カーネーションのようにも見えました。 ナイトメアがどこを捜しても、ドロシーはもう見つからないのです。 彼女の肉体の、どの部分にも。彼女の精神が安置されていたであろう臓器は、彼自身がかみ砕き、呑み込んでみました。けれど、やはりそれは血であり細胞であり、彼女の一部ではありましたが、既に彼女が居なくなってしまった後なので、ただの肉塊に過ぎないのでした。当然。 彼女の肉体を壊し、彼女の肉体を犯し、彼女の肉体を貪りました。けれど、全ては無駄なのです。そのようなこと、ナイトメアは理解していました。もちろん。当然。 キャンパスに住むドロシーを、紫色の絵の具がなぞります。 それは、彼女の血とナイトメアの血を混ぜた色でした。 “悪夢”であるナイトメアに、特定の血の色はありません。しかし、彼の爪でその手首を切った時、溢れたのは青い血でした。とある神話によると、この世界の生き物は、青い空から生まれ落ち、魂には紅の火を灯しているのだそうです。だから心を持つ者は皆、赤い血をその身に流すのだと。 彼は自嘲します。異なる存在である証。その血と、ドロシーの血を混ぜ合わせたそれは、鮮やかな紫色でした。 彼が造った狂気の魔獣、確かそれも、同じ紫色の血を流していたと思います。 その穢れた紫色で、彼女のローブを彩ります。 それは、彼女を支配するための呪縛です。 呪縛で彼女を包み込みます。 「……リルゼン、アナウスに操作させ、その婚約者とやらをドロシー・ソーサー殺害と死体の破壊、それら全ての犯人にしろ。そして2年はそのまま騒がせておけ……ドロシーの絵画の消失も含めて、だ。騒動の沈静化後、現存するドロシーの絵画を全て集めろ。手段は問わぬ。」 「はい。」 ナイトメアは、草原に転がった男の死体に目をやります。 彼は、ほんの一瞬だけ、明らかな、そして強烈な殺意と憎しみ……そして、本当に一瞬だけの嫉妬を込めて、その固く握った掌を振り下ろしました。 ずじゃっ その死体は、その半径数m分を巻き込んで、まるで見えない球体に押し潰されたかのように、挽き潰され、陥没しました。リルゼンは、その様子に顔色も変えません。 「魔王様……犯人の死体の変形というのも、アナウスの話術に誤魔化させてよろしいでしょうか。」 ナイトメアは、確かな嘲りの表情を浮かべながら、それに答えます。 「好きにするがいい……何、絵画の呪いとでも嘯けば、簡単に信じ込むだろう。」 血の色のローブが彼女に着せられ、筆先を使いその胸元に、ハートのマークが描かれます。 そのハートが鮮やかに光り、そのけばけばしいコントラストが、ナイトメアを照らしました。 彼は、知っていたのです。 彼女をこうして汚した時点で、彼女の唯一無比の部分、彼女の輝ける最高の部分を、粉々に壊してしまったことを。 その絵の前で、彼は全くの無表情です。 「ハートのクィーン……お前に名前をやろう。」 月の光が、草原をさわさわと揺らしながら、その様子を眺めています。 ドロシア・ソーサレス。 そう名付けられた一枚の絵が、ゆっくりと、その生を迎え入れる瞬間を。 |