短編 雨



 雨が好きだ。
 思えば、物心ついたときから、雨の日を楽しみにする癖が付いていた気がする。
 仄暗い窓辺から、心地よい憂鬱な雨の空気を吸い、ザァザァと降り注ぐ雨を眺めるのが、好きだった。

 紫陽花も好きだ。
 それと、カタツムリも。

 あの、水彩絵の具を溶かしたような淡い色の紫陽花、まだ小さくて透き通った殻を被ったカタツムリ。
 そして、世界には自分一人しか居ないのではと思わせるぐらい、閉鎖的な、雨。
 どこか似ていると感じていた。自分に。
 ひとりが好きだった。
 そんな自分に。









 ザァザァ。
 朝からの大雨。空気が冷たく張りつめた感じ。
 その空気は城の中にまで進入していて、レンガがしっとりと冷たい。
「珍しい……。
プププランドに来てから、こんな大雨はじめてでゲスなぁ…。」
 図書室の一角で、古くさい分厚い本を読んでいたエスカルゴンは、窓ガラスを濡らす雨の流れに感銘を受けた。
 電気を点けていても、その雰囲気は拭えぬもので、どこか暗い。
 エスはその音に聞き入っていたが、しばらくして、スッと、立ち上がった。





 ザァザァ。
 群青色の大きな傘をさして歩く。足下の、ぐにゃりとした泥土。幾つもの水の輪。傘をさす掌に伝わる、雨の打つ手応え。
 外の世界と全く遮断されたような、閉じこめられたような。そんな強い雨音。
 雨の日の風は下から吹く。ピチャピチャと泥を撥ね、焦茶の斑点に彩られていく、白衣の先端。
 不思議な感覚だ。恍惚にも似た。
 ザァザァ。
 閉鎖した感覚。
 自分は、世界から引きこもりたいと願っている。そう、確信できるような。

 紫陽花は、裏庭の影の辺りに群生していた。雨の日に、唯一穏やかなその色彩。
 いつもなら、裏庭にもワドルディ達が植木の世話に歩き回っているのだが、そんな彼らの姿もない。
 きっと、ワドルドゥが彼らを外に出ないようにと気を配っているのだろう。風邪なんかひいてほしくないからとか、そんな理由で。
 ザァザァ。
 紫陽花というものは、雨に濡れているからこそ、可憐で、美しいのだと思う。深い緑の葉の上を、のそのそと動くカタツムリ。
 何か、ひどく気怠い気分になって、そこに座り込む。どしゃっ。水っぽい泥が肌に触れる。別に気持ち悪くはない。
 ひとりが好きだ。
 それは、自分に許すという機能が欠けているから。
 子供の頃から捻くれ者で、全てをバカにする馬鹿だった。
 クラスメイトに蹴られた膝が痛かったが、それ以上に、他の全てが嫌いだった。
 何もかもがイヤだった。
 世界の全てを罵倒したかった。
 みんな愚かだと思っていた。
 自分が一番愚かだということも、解っていた。
 ザァザァザァ。
 雨足が、一段と強くなった気がする。傘の表面からも、冷気が伝わる。
 ザァザァザァ。
 雨が、降り続く。



「エスー、何しよるん?」



「!?」
 驚いて、傘を手放してしまった。振り向くと、彼女は多少の呆れた表情をしている。
「あー、傘落としたらあかんやん!ほら、はよウチの傘に入らんかいっ!
心配して探してたんやからな?風邪なんかひいたらあかんよ?な?」
 ザァザァ。
 雨の滴が髪から首筋に垂れる。差し出されたクラッコの傘は、オフホワイトの女性らしい傘だった。
 群青の傘は足下に転がっているが、体温を奪う雨の衝撃は感じられない。
「……なんで、私なんかを探してたんでゲスか?」
 ザァザァ。
「だから、エスが心配だからって言うたやん。」
 …ザァ……。
「なんやー、ひとの話は聞かな。」

 紫陽花の震えが止まる。冷たい空気が引いていく。
「……あ、雨、上がったなぁ。」
 徐々に光を漏らし、去っていく雲。
「もー、エス、白衣こんなに濡らしてぇ。洗濯するのが大変やで。
ほら、貸してみぃな。」
「だ、大丈夫でゲス。これくらい、自分で洗うでゲスよ。」
 傘をたたんで、手を繋いで。
 雲は光を散らしながら、ゆったりと流れる。
 ふたりの横顔は、どこか幸せそうだった。