第20話 それぞれの戦い(1 〜血の跡)



 乾いた空気、冷たい風。グーイは、横向きに倒れたまま、しばらくの間、ピクリとも動きませんでした。
 グーイの胸からは、ゆっくりと、けれど着実に、こぽこぽと血が流れ落ちています。エリザの生み出した刃の竜巻に、彼の胸はざっくりと切り裂かれていましたから。
 もし、彼がただの人で、こうして何もない荒野に一人、大怪我を負って取り残されていたのならば、あと数分で命の炎を絶やしていた事でしょう。
 グーイは、自らの傷跡に、指で触れてみました。
 ……貫通しているわけでもない。特殊な魔法や呪いがかけられたわけでもない……ただ、損傷しただけだ。
「……フッ…!」
 傷の上に置かれた掌が、群青色に光りました。一瞬、全てを呑み込むような「闇」の色が荒野を照らし、その更に一瞬後には、ただぐったりと地面に倒れている少年の姿だけがありました。彼の胸に傷はもう、ありません。乾いてしまった血の跡の上で、グーイは霞んだ目をこらし、曇った空を見つめました。
 ……油断していた。みんなと、はぐれてしまった……。ここは、どこだろう。迷宮の中に入り込んでしまったことだけは、間違いない。
 他のみんなは、どこへ行ったのだろう…? ここの「鏡」の中へ入ったのは、自分だけなのだろうか? ……自分だけが……。
 グーイは、自らへの怒りと嫌悪のあまり、きつく目を瞑りました。
 ルビィさんは、「ダークマターでない」僕が、どれほど弱いのかを知っている。「ダークマターと化した」僕が、どれほど邪悪かも知っている。
 だから、僕がいても足手まといになるだけだ。戦おうとすればするほど、みんなを巻き込んでしまう……その挙げ句が、一人で調子に乗って…………この様、ですか。
 グーイは、自嘲じみた笑みを浮かべました。
 空は分厚い雲に覆われ、太陽も見えません。ここは、どこなのでしょうか。みんなは、どこにいるのでしょうか。
 グーイは、とにかく、立ち上がりました。
 誰かを探さなくては……。
 錆色の地面に足をかけると、ザクッという乾いた音がしました。まだ痛みは残っていましたが、歩けない事はありません。グーイは、一度深呼吸し、立ち上がると……そのまま、後ろを振り向きました。
「……そこにいるのは、誰ですか。」
 睨め付けるような眼で、そちらを見つめます。
 風が吹いてゆきました。
 しばらく、誰も動きませんでした。

「ヒュージさま?」

 どこかで、
 誰か、幼い少女の声が聞こえました。
 グーイは戦慄します。
 その少女の呟いた名前は、もうこの世にはいない存在。
 いない筈の存在。
 ……グーイ自身が、目の前でちゃんと、看取った筈の……
「ヒュージさま? そこにおられますか?」
 ……看取ったはずの、闇の王の名。
 ごくりと唾を飲み込みます。落ち着かなくては。ヒュージは、死んだ……。
 そう、ヒュージは……。
 …………。
 ……闇の王、ヒュージ。
 邪なるダークマターを支配する者として、銀河にその名を轟かせた伝説の存在。
 幼い女の子が、軽々しく……それも、「様」づけで呼べるような英雄ではない。
 ……その女の子が、「ただの」女の子だったなら。
 グーイは一度、深呼吸します。
 もう一度、同じ事を訊きました。
「……あなたは、誰ですか?」
 暗がりの中から、揺らめく影が現れます。
 鴇色の髪をした少女が、そこに立っていました。
 にっこりと、笑っていました。





 ちゃぷん……ちゃぷん、ちゃぷん……――――

 タトゥーは、マルクを抱きとめたまま、海の浅瀬に浮かんでいました。
 キラキラと跳ねる波の上。荒野の星で生まれたタトゥーが初めて見る、そして初めて触れる海でした。しかし、身体中から発される痛みと、彼らの現状は、その感動に浸らせてはくれません。
「……あー。疲れた……。」
 ちゃぷちゃぷと揺れる波に、身体の汚れを落とされながら、タトゥーはそう、呟いていました。当然でしょう。タトゥーは、ミラクルマターの襲来から今まで、ほとんど休み無しでここまで逃げてきたのです。そして、先ほどの戦闘から見て、鬼ごっこはまだ続いている。休憩、とはいかねーかな……タトゥーは、いい加減腹を決めていました。
 自ら囮になってまで、自分とマルクを逃がしてくれた村のみんな。彼らのためにも、自分たちは逃げおおせなくては。こんな所で捕まるなんて、まぬけにも程がある。タトゥーは、マルクを改めて担ぎ直し、馴れない水の中で藻掻きながら、砂浜の上を目指しました。
「…………。」
 ふと、タトゥーはマルクの頬を、見つめます。
 気絶していた筈のマルクが突然起きあがって……追っ手のパルを撃退した一連の時、あの爆発の中で、一瞬、本当に一瞬だけ、タトゥーのこぼした血の跡だけじゃない……何か、とても禍々しく、異彩な……血よりも真っ赤な、ハートのマークを見た気がしました。ずっとそれが、タトゥーの心の中に引っかかっていたのですが……改めて見ても、マルクの頬にそんなマーク、痕跡さえもありません。せいぜい、血や砂埃がその幼い顔にしがみついているだけでした。タトゥーは、その汚れを海水で拭ってやります。
 ……気のせい、だよな。おかしいぜ全く、ハートのマークが見えただなんて……マルクと何の関係があるってんだよ?
 タトゥーは、マルクをおんぶした状態のまま、砂浜と波間の境界まで来ていました。俯き加減で歩きながら、タトゥーは、ぼうっと、思います。

 何でオレ、「ハートのマーク」をそんなに気にしてるんだろう。
 関係ねぇじゃん。
 オレとも、マルクとも。
 …………。
 ………………。
 ……違う。
 どこかで、見たことが、あるんだ。
 そうだ。
 あのシルシは……
 確か……

 ……悪魔の……

「……――――ッあっぢーあぢぃあっつうううううううッ!!!!!?」
 ぼけっとしたまま砂浜に足を踏み入れたタトゥー。彼は、熱砂を素足で踏むことの恐ろしさを何も知りませんでした。哀れ、白い砂浜の上でコサックダンサーと化すタトゥー。おんぶされたマルクの存在と相まって、奇妙なシュールさを醸し出しています。思考は完璧に中断されていました。
「あつあつあつあつあつぅっ、なななななんかもう熱くて飛び跳ねてるんだけど!かなりコサックダンスなんだけど!!てかもう地面揺れてるんだけどー!?」
 足をシャカシャカさせながら叫びます。これだけ激しいダンスをしていれば、地面が揺れてるように感じるのも当然です。
 ……まぁ、激しいダンスをしていなくても、地面が揺れていると感じることはできたでしょうが。
 もこっ
 タトゥー達の足場が盛り上がります。
「うお!?」
 ザアアアアアアッ
 タトゥーは、マルクを背負ったまま、砂の中から突如現れた謎の機体の上で、呆然としていました。
 オレンジ色のその重機は、「ピピ?」と、軽い電気音のような声を漏らします。
「どうしたの? ヘビーモール。何かにぶつけた?」
 少年の声です。ヘビーモール、と呼ばれた機械の中から、その声は聞こえました。
 タトゥー達が丁度乗っかっている、その機械の頭上の辺りの丸ドアが、パッカンと開きます。
「お?」
 タトゥーとその少年は、同時に声を上げました。
 彼らは一様に、気の抜けた、「ビックリ」を絵に描いたような表情を、してました。