01.墜つる星



 ――彼は、暗い道を歩いている。
 右もない。左もない。上も下もわからない。
 ただ、黒い、暗い、闇の世界。
 彼は一振りの剣を握っている。その剣から滴る血の音が、足音に重なっていた。
 汚れきった剣だった。
 その刃は、元々虹の色に輝いていた。なのに今では黄昏のような、赤く鈍い、仄かな灯りをともすだけになっていた。
「…………」
 彼は、剣を抱えて、座り込む。
 腕に、服に、血がしみこんでいく。
 気持ち悪い。
 だけど、剣を、手放せない。
 蝋燭のように儚い灯りを放つこの剣を手放してしまえば、この暗い世界で、自分がどこにいるのかさえ、わからなくなってしまうだろう。
 鞘のない剣を、抱きしめる。
 刃が頬を撫でた。
 他人の血が、頬を染めた。



 ズルリ……。
 ズルリ、ズルリ……ズル、リ。
 闇が、揺らめいた。
「……紅の君よ。戻ったか……。
我が……愛しの、ルビィよ……」
 血の色の双眼が空中に現れ、
 金色の髪が、褐色の肌が、紅い唇が現れた。
 足音さえ立てない、不気味な男。
 彼は、闇と同じ色のローブを引きずりながら、ルビィに向け両腕を広げた。
「此度の任務では、善くやってくれた……お前の働きぶりは賞賛に値する。
お前が殺し……傷つけ……破壊した、そこに生まれる痛みと傷が、甘美なる負の感情を……我々、ダークマターに与えてくれる」
 囁きながら、ルビィを背中から抱きしめた。ルビィは表情を変えない。剣を抱いたまま、無言で、虚空を見つめているだけだ。
「ククク……無惨なものよ。彼奴等も、よもや自らが星の戦士に滅ぼされるなど、夢にも思わなかっただろう……。
星の戦士とは、惑星と生命を守護する者。平和を愛し、乱れと歪みを排除する者。――己等の危機とあれば、無条件に、生命と財産を守ってくれるのだろうと……そう、クク……幼稚にも信じていたのだろうなァ。
……ク。ククク……ククク……クカカカカカ!!!
哀れ、哀れ!! 信頼!希望!皆砕け散るがいい!! 星の戦士ルビィはこのヒュージの虜!ダークマターの王たる我の擁する血塗れの戦士!お前が切り裂いた魂の絶望と失望が、より私を巨大にしてくれる……私の闇を……ククッ、ククク、カカカカカカ!!!」
「……少し黙れ……ヒュージ」
 ルビィは、無表情のまま、ただ唇だけを動かして言った。しかし、その言葉に呼応するように、ルビィの抱える剣――虹の剣が、闇に一閃の光を放つ。ヒュージは、不愉快そうに眼を細めた。まるで蛇のような眼だ。
「ああ……ルビィ……私の美しき操り人形よ……。
君を、我が胎内へと墜としたい……。その邪魔な光を全て取り除き、我が闇に染めてしまうことができれば……どれだけ良いか……。
君の心は私のもの……誰にも渡さぬ、誰にも汚させぬ。しかし……しかし、君はどうして私を見てはくれぬのだ」
 ねっとりとした赤い舌が、ルビィの耳元で踊っている。
 ルビィは、魂の抜けた顔で、ただ黙ってそこにいるだけだった。
 ――そう。
 ルビィの魂は、此処にはない。
 星の戦士としての、高潔な魂は……
 彼の抱える、虹の剣と同じく。
 汚され……錆び付き、凍えてしまった。
 それでも、最後の光を失わない。蝋燭のように細く、弱々しい光であっても、どれだけ血で汚れても、消せない光彩がそこにはあった。
 それがヒュージを……――
 限りなく、苛立たせた。
「紅の君よ……」
 ……ぽたっ
 ぽたたっ……
 ルビィの頭上から、黒い粘液が落ちてくる……。
 それは、ゆっくりとルビィの頬を、首筋を、服を皮膚を髪を覆っていく。
 黒い闇に、呑まれていく……。
 空っぽの紅い眼が、ヒュージの血の色の眼を見つめた。
 ヒュージは、微笑んだ。
 歪んだ、狂った微笑みだった。
「私はお前を愛している……何よりもお前を愛している……。
だから、君よ……私にとって、邪魔なのだ……君の光も……剣も……そして、お前の双子の片割れも」
 溺れるように、ルビィの体が深い闇に沈んでいく。
 ニタァ、と、笑う。
「お前は、結局一言も喋らなかったなァ。双子の片割れの居場所を……だが、我は遂に突き詰めた。ポップスターだ……忌々しい黄金の惑星……。そこに、お前の双子の兄弟がいる……」
 そして、沈みゆくルビィの顔を覗き込むように、ヒュージが近づいた。
 歯を見せ、三日月のように口を広げ、笑う。
「奴を殺せ」
 ククク、クククク、カカカカカカ……
「殺せ、殺すのだ、ルビィ。お前の片割れの兄弟――星の戦士カービィを、その手で殺せ!!」
 カカカカカカカカカッ!!!!
 狂ったように笑いながら、ルビィの肩を掴み、どぷん、と、闇の奥へ奥へ沈めた。
 ルビィは、その言葉を脳内で反響させたまま……墜ちていく。
(……カービィ)
 どこか、遠い記憶の果てで、その名を聞いたことがあったような、そんな気がした。
 それは、大切な存在であった気もした。
(……カービィ)
 しかし。
 今、重要なことではない。
 一人きりの星は、暗い空でしか輝けない。生きていけない。
 星の戦士という宿命。肩書き。そのようなものは、ルビィに何の価値も意味ももたらさなかった。
(……カービィを、殺す)
 ヒュージから与えられた命令を、執行する。
 それだけが、ルビィの存在理由だった。

 ……ポウ……。
 その手に握る虹の剣だけが……悲しげに、揺らめいている。



 ――ヒュージは、一人思案していた。
 ルビィは闇に沈めた。星の戦士として生を受け、光の加護を受けた彼を、何度も繰り返し闇に染めることで、ヒュージはルビィを我がものとして操ってきた。罪もない人々を殺させることで、ルビィ自身の善意を殺すことも、その一環であった。
 これで、実の弟の血を剣に吸わせれば、ルビィの心は一切の希望と未来を失うだろう……。
 漸く、彼は真に、自らのものになるであろう。
 それは、幸福な結末であった。100年の時をかけて、ルビィを愛で続けた甲斐があったというものだ。
 ……しかし、ヒュージを今悩ませているのは、ルビィの事ではなかった。
「……グーイ。……グーイよ」
 ギリッ。
 牙を剥き、憎々しげに呟く。
「我が息子でありながら、私の元から逃げ出し……あまつさえ、裏切るとは。愚かなり、グーイ……異端の君よ」
 ヒュージは、ローブを翻し、その掌に黒い宝石を結晶させる。
 その石に、闇色の霧が集まっていく。それは円を形作り……巨大化したボール状のそれに、ぎょろりと、血紅の眼球が現れた。
「ダークマターよ。グーイを追え……そして、見つけ次第、始末せよ」
 ヒュージの命令に従うように、ダークマターはすぐさま闇に紛れ、グーイの痕跡を辿り銀河の果てへ消えた。
「フン……グーイめ、無駄な足掻きを。頼るものさえ持たぬ闇の落とし子が、いったい何を望むのか」
 ヒュージは、苦笑する。
 その彼の背後から、ボコボコと……新たな目玉が、雨後の竹の子のように生えてくる。
「空間転移の術式を整備せよ。目標地点は、ポップスターだ――」



 ――闇に沈む紅の姿を、黄金の星の空の下で待つ少年は、まだ知らない。
 しかしその出逢いは、もう、すぐ先である。
 あらがえない運命の輪が、廻り始めていた……。